§5

 クレイの予言は当たっていた。

「あら――ブライアン?」

 階段を降りきったところで、ルーシャスは女性三人が連れだってやってくるのに出くわした。浅黒い肌に白い服が映えるハディアに、背が高く威圧的な印象のキアナが続き、さらに先刻ルーシャス達に部屋を用意してくれた“職員”の初老女性が従っている。

 さっきの部屋の前でもう少しでも留まっていたらまず見つかっていただろう。極力怪しまれたくはないので、そうならずに済んだのは幸いだった。

 ハディアはルーシャスの手にしたトレイに目を留めて微笑む。

「まあ、わざわざ食器を下げに来てくれたのね、ありがとう。でもちょうど良かったわ、今あなたを呼びにやるところだったのよ。マダム、あなたにご足労願わずに済んだみたい」

 ハディアが背後に目くばせすると、マダムと呼ばれた女性は穏やかに微笑んで、こちらに手を差し出してくる。促されるままに、ルーシャスはそうっとトレイを渡した。

 自分が呼ばれたということは、もうエイミルとの話は終わったらしい。

「向こうの食堂でルーシャスとヴィンが待ってるから、行ってちょうだい。ヴィンがちゃんとお話ししてくれるから、彼の言うことをよく聞いて。マダム、この子を案内してあげてちょうだいね」

 ルーシャスとマダムとそれぞれに向かって言いつけると、ハディアはさっさと階段を上って行った。そしてキアナが、こちらには目もくれずそれに続く。

 階上に消えていく二人の背を見送りながら、ルーシャスは少しほっとした。どうやら彼女たちにとって自分のことは二の次らしい。ここに連行されたときは尋問でもされるのかと心配していたのだが、ヴィンフリート青年の説教だけで済みそうだ。

 しかし同時に別の不安もよぎる。ハディア達が用があるのは、間違いなくクレイだ。どんな事情があるのか分からないが、あんな子ども相手に、身体を縄で縛って閉じ込めておくなんて正気とは思えない。

 先刻クレイを部屋に連れて行ったのはキアナだったから、順当に考えて縛りあげたのも彼女なのだろう。その光景を想像すると少し滑稽な気もするが、実際笑いごとではない。今度はハディアもいることだし、あまりひどいことをされないといいのだが――。

「坊ちゃん、こちらへどうぞ」

「あ、はい」

 気がつくと、マダムは廊下の先へと進んでいて、ルーシャスは慌ててついて行った。

***

 食堂は、十人掛けのテーブルを一つ置くので精一杯の小ぢんまりとした部屋で、奥の方で少年と青年が向かい合わせに座っていた。

「おお、早かったんだな。まあそこ座れよ」

 ヴィンフリートに促されるまま、ルーシャスはエイミルの隣席に着いた。

 エイミルは何か言いたそうに視線を寄越して、しかし黙ったままで難しい顔をしていた。それが素の表情なのか、それとも演技なのかは判らない。先刻までどんな話をしていたのだろうか。ともかくも、これからの話題は決まっている。

 ヴィンフリートが姿勢を正し、「さて、ブライアン」と切り出した。

「もう一度確認しておくが、さっきも言ったように、実家には帰るな。大人しく学校に戻ること。これはもう納得してくれたな?」

「はい……」

 納得も何も初めから事情が見えないのだが、頷くしかない。

 これまでの会話の端々から推測できることは、アイルランドのほうで何か危ないことがあったらしいこと、そのために学校はアイルランド出身生徒の帰省を禁止していたらしいこと。妙な点は、そのことが他の生徒たちには知らされておらず、新聞などでも報道されていないこと、にもかかわらず大陸から来たヴィンフリートらが詳しい事情を知っているらしいこと。

 何も知らずにアイルランドに帰ると言ったばかりに、ルーシャスもとい“ブライアン”は危険を顧みず無茶をしようとしていた少年というふうに認識されてしまったらしい。こうして話をするのも説得のためなのだろうが、実際は帰郷するつもりのなかったルーシャスにとってはあまり意味のないことだ。

 しかし今は、話を合わせておくしかない。

「それでまあ、学校に告げ口するのは止めておくから、言われるまでもないだろうが寮に戻る時はこっそりとな。もしお前さんがいないことで騒ぎになってても、俺らは責任取れないから、そのつもりで」

「はい」

「うん。寮仲間がどれだけ踏ん張ってくれてるのか分からんが、いずれにしても彼らにはよくよく感謝することだな」

「はい」

「ようし」

 ヴィンフリートは大きく頷いた。

「それじゃあ本題に入るが、えー、どこから話すか。そうだな、まず知っての通り、最近アイルランド島各地でテロが頻発してる」

「テ――っ?!」

 予想外に物騒な単語が飛び出したので、ルーシャスは危うく訊き返すところだった。が、エイミルに足を蹴られて何とか呑みこんだ。そんな机の下の一瞬の出来事には気づかなかったらしく、ヴィンフリートは話を続ける。

「と、学校では説明されたと思う。が、それはちょっと違っててな。なんというか、厳密にはテロっていう表現は正しくないかもしれない。が、それに近い暴力行為が起こってるのは本当だ」

「……?」

 もう何が何やらわからない。エイミルを見ると、驚く様子もなく話を聞いている。

「で、このことは公には知られていないわけだが、それにはちょっとした事情があって――つってもまあ、ぶっちゃけて言うと、うちの組織の内部抗争、みたいなもんか」

 どちらにしろ穏やかではない。

「あ、あの、組織、というのは……?」

「そう、その組織のことだけどな。ブライアン、お前さん、シャローマ学院のことは知ってるよな? 要するに、今度ルーシャスがそこに入るってことを」

「え……いや、それは……」

 横目にエイミルの反応を窺ったが、素知らぬ顔で黙ったまま何も言ってくれない。

「ああ、別に気にしなくていいから。秘密にしてたのは単に目立つのを避けたかっただけなんだし。お前さんに打ち明けたことぐらいでルーシャスを責めたりしないさ。特別仲良かったんなら、仕方ないだろ」

「はあ……はい」

 本当のところを言えば自分はルーシャス本人なので知ってるかも何もないし、“ルーシャス”ことエイミルとは今日まで話したこともなかったぐらいの疎遠な仲である。。

「うむ。それでだな、あー……俺たち――ハディアとセラーさんと俺な――は、ルーシャスをシャローマ学院まで連れて行くように言い遣って、こうして迎えに来てる。といっても、俺たちは学院のあるアルマディナからはるばるやってきたわけじゃあない。学院内の職員じゃないんだ」

「?」

「俺たちは、学院を運営している組織のほうの人間なんだよ。で、その組織ってのは、まあ簡単に言えば慈善事業団体だ。シャローマ学院以外にも学校やら施設やらたくさん創ってる。そら、ロンドンにあるお前さんたちの中等学校も、その一つだよ」

 どれだけ大きな組織か知らないが、シャローマ学院と自分のいた学校との間にそんな繋がりがあったとは、全く思いもよらなかった。というより、そんな組織が存在すること自体が初耳だ。

「で、今何が問題になってるかっていうとだ。その組織のアイルランド支部で、一部の奴らがどうも折り合いがわるくて……あー、何というかその、暴れてるらしいんだよ」

「……あばれる?」

「そうそうそう、ちょっとな。対立する支部職員の家に放火とかな」

 それは、ちょっとという度合いを越しているのではないか。

「まあやってることの規模はたいしたことないらしい。一般人に被害は出てないしな。ただ内部抗争なんてみっともないんで、何とか表には出さずに済ませたいってのが本部の意向。で、全部内々に処理されてるそうだ」

 なんだか縁遠すぎる話で上手く飲み込めないが、大変な事態が巻き起こっているのは分かった。それに、世間で報道されていなかった理由も。

 しかし、それは学生の帰省を禁止しなければならないような状況なのだろうか。

「そして、だ。こっからが重要だからよく聞くように、ブライアン・ルース」

「は、はい」

「最近向こうで青少年の行方不明事件が頻発してるそうだ。それも皆うちの組織の系列学校の学生ばっかり。たぶん奴らに誘拐されたんだろうってことなんだが」

「誘拐……」

 組織の内部抗争というのはそんなに激しいものなのか。巻き込まれた学生たちはたまったものではないだろう。

「だからうっかり故郷に帰ってみろ、お前さんも目をつけられる可能性は十分ある。その校章みれば、うちの系列校の生徒だってすぐ判るからな」

 ヴィンフリートに指されて、ルーシャスはブレザーの左襟に付いている銀色のバッジに目を落とす。その校章は円形で、中央に花を象ったと思しき紋章があり、外周に校名などが刻まれている。これといって独特なところもない。

 横を見ると、エイミルも自分の胸を見降ろして怪訝そうな顔をしている。

「あの、こんなので、判るんですか?」

「ああ。その薔薇印はうちの標章なんだよ。うちではどこの学校の校章もその意匠で統一してて、あとは校名を入れ替えただけだな」

「はあ……」

 この絵は薔薇の花だったのかと、少しずれたところでルーシャスは感心した。

「だから、お前さんは家族より自分の身を心配するのが先だ。というか逆に、帰ったほうが家族を危険に晒すことになるかもしれない。奴らは別に無関係な一般人は狙ってないんだからな。わかるよな?」

「はい」

 なるほど、確かに家族がいたなら、誘拐の標的になるような学生が帰宅すると家族ぐるみで危害が加えられることも考えられる。ヴィンフリート達が顔色を変えてとめようとしたのはそういうわけだったのだ。

 再三にわたって念を押されるのは閉口ものだったが、情報を得られたことは幸いだったと思おう。存在しない家族の心配は不要だとしても、もし何も知らずにいてこの校章を付けたままアイルランド島に入るようなことがあったら、危ないところだった。

 しかし、こんな大事なことなら学生皆にきちんと教えてくれてもいいだろうに。

「あ、あの」

「ん、何だ?」

「えっと、何で学校は、テロ、だなんて説明を?」

 恐る恐る尋ねてみると、ヴィンフリートは苦笑して答える。

「ああ、それは単に説明を簡潔にしたかっただけだな。うちの組織、あんまり表に名前出さないようにしてるから、学生なんかは普通知らないだろ。全部説明するのはまあ面倒だからな。それに組織の事情をべらべらしゃべるわけにもいかないだろ。体面も悪いし」

 それはそうかもしれない。というか、ならば今話してくれた内容は問題ないのだろうか。別に言いふらそうとは思わないが。

「あとは、脅しのためだ。テロって言っとけば、びびって誰も帰らないだろうってことで。ただ、家族への心配がすぎて飛んで帰ろうとする奴がいるとは、想定外だったろうがな」

「……すみません」

「いやいや。いい加減な説明をさせたこっちが悪かったんだが、お前さんも見かけに似合わず勇敢だなあと思って」

 そう言いつつ、ヴィンフリートはくつくつと笑う。実際にはそれは彼の思い込みであって、こちらに非があるわけではないので、からかわれるのは少し不本意だ。

「まあしかし、あんまり思いつめるこたあない、ブライアン。うちの組織だって反派の奴らをいつまでも放っては置かないさ。この冬休みは寂しいだろうが、そうだな、次の夏休みごろには家に帰れるようになるだろうよ」

「はい」

 気遣うような言葉を掛けてもらって申し訳ない限りだが、今のルーシャスはそんな先のことを考えるどころではない。とにもかくにも、今晩を無事に切り抜けて、明朝ここから解放されることを願うばかりだ。そのあとどうやって暮らしていくかを考えると、気が重くなるが。

 そんなルーシャスの気分とは裏腹に、ヴィンフリートはすっきりした顔でふうと一息ついた。

「さて、俺が話すべきことはこれで終わりだ。なんか質問はあるか?」

「いえ……特には」

「そうか。ま、言われなくてもわかってるだろうが、今日聞いたことは、学校に帰ってもなるべく口外しないでくれると有難い。うちや学校の信用にも関わることだからな」

「はい」

「うむ。ルーシャスは、なんかないか?」

「いいえ」

 終始無言だったエイミルは、やっと口を開いてもそっけなかった。

「よし。じゃあもうお開きだな。二人とも、戻っていいぞ。シャワー室は宿泊室と同じ階にあるから、よかったら使えな」

「はい、有難うございます」

「ありがとうございます」

 やっと終わった。あまり突っ込んだことを訊かれずにすんで良かった。ほっとしながらルーシャスは席を立った。

 そうして一同でぞろぞろと食堂を出たところで、先頭をいくヴィンフリートが「そういえば」と振り返る。

「一応聞いとくが、お前さん、あの子とは別に何も関係ないんだよな?」

「え? ええ……」

 あの子というのはもちろんクレイのことだ。忘れていてくれてもよかったのに、と思いながら、ルーシャスは頷いた。さっき三度目の会話を交わして、名前も教えてもらったが、そういったことは伏せておいたほうがいいのだろう。

「そうか。あのとき話しこんでた様子だったが、何かあったのか?」

「いえ、あの、角を曲がったときに、ぶつかっただけなんです。僕がぼうっと歩いてたのが、悪かったんですけど」

「なんだ、そうか。じゃあお前さんには感謝しなきゃな」

「?」

「偶然とはいえあの子を足止めしてくれたんだから。逃げ足速くて参ってたんで、ほんと助かったよ」

「はあ……」

 言われてみれば、そうなるのか。つまりルーシャスは、それまで上手く逃げ切っていたクレイに足止めを食らわせたうえ、大金をもっていたせいで余計な疑いをかける原因をもたらしてしまったのだ。追われている最中なら、ぶつかった相手のことなど放置して逃げてもよかったのに、クレイは心配して足を止めてくれた。そのために災難に巻き込んでしまったと思うと、ますます申し訳ない気分になる。本人は、怒ってもいないし自力で脱走するので心配無用だと言っていたが、本当に大丈夫だろうか。

 今後クレイがどうなるのか、ヴィンフリートに尋ねてみたい気もする。が、自分がそれを知ったからといってどうなるものでもないし、「関係ない」と言った手前、気にかけているような言動はやめたほうがいいだろうか。

 考えている間に二階に着いた。

 ヴィンフリートはそこで歩みを止め、

「じゃあ、二人ともゆっくり休めよ」

 そう言って手を振って、すぐそばのドアに歩み寄っていく。そこはクレイのいた部屋だ。今はおそらくハディアとキアナもいる。中の状況が非常に気なるところだ。ヴィンフリートが入るときに、少しぐらいなら垣間見えるかもしれない。

 そんな期待をもって見ていると、ヴィンフリートが手をかけるより早くドアが開いた。

 青年は一瞬身をすくめて、それから肩を落とし胸を抑える。

「ハディア。いつものこととはいえ心臓に悪いんですが、それ」

「あら、ごめんなさい。手間を取らせてはいけないと思って」

 出てきたのはハディアだった。青年の苦情にもけろりとして微笑んでいる。

「それと、これをブライアンに返してあげなきゃいけないから」

 彼女が差し出したのは、成り行きでクレイに預けっぱなしにしていた、ルーシャスのトランクだった。横でエイミルが息をのむのが分かった。

 ヴィンフリートが不思議そうな顔でこちらを振り返る。

「ブライアン、これ、お前さんのなのか?」

「えっ? あ、はい」

「そうか。ほらよ」

 ハディアの手から受け取ったトランクを、ヴィンフリートは流れるようにルーシャスへと渡した。

「ありがとう、ございます」

 ようやく戻った重みが何だか懐かしい。もうほとんど諦めていたのに、こうあっさりと手元に戻ってくるとは。クレイが返すように言ってくれたのだろうか。

 ヴィンフリートはハディアに向かって首をかしげた。

「なんで彼のをあの子が持ってたんです? まさか、ひったくりとか」

「あのね、それは――」

「ち、違うんです!」

 ルーシャスは思わず声を張り上げた。その場の全員の視線を集めてしまい、それで怖気づく。が、ここで引くわけにもいかないので、勢いを失いながらも続ける。

「あの、それは……忘れてたんです。僕も今、思い出して。ぶつかったときに落としたのを、あの子が拾ってくれて、そのあとすぐ捕まったので、僕も混乱してたし、受け取るのを忘れてただけで……あの子は、悪くない、です」

 我ながら喋っていて苦しいが、でもだいたい事実なので他に言いようもない。

 ルーシャスが一通り弁明し終えると、皆三秒くらい無言だったが、最初にハディアがくすりと笑った。

「そのようね。彼女も返すのを忘れていたんですって。あなたにごめんなさいと言っていたわ」

 くすくす笑いながら、ハディアはヴィンフリートに向き直る。

「ヴィン、あなたもあんまり怖い顔で迫っちゃだめよ」

「ええ、俺のせいですか? どっちかっていうと――いや、何でもないですけど」

 責められた青年は、抗議しかけて、しかしドアの奥に視線をやってから気まずそうに語尾を濁した。

 どうやら、クレイが疑われるかもというのは杞憂だったようだ。

 気が抜けてぼうっと立ちつくしていると、ハディアが気づいて手を振った。

「途中で呼びとめてしまってごめんなさいね。さあ、今度こそ二人とも行っていいわ。お休みなさい」

 そう促されて、ルーシャスはエイミルに続いて挨拶を返し、再び階段に戻る。

「良かったじゃないか。荷物が戻って」

「う、うん」

 次の階に着いたところで、エイミルが無表情に小声で言って、ルーシャスはぎこちなく頷いた。

「あの、君のほうは、何かあったの?」

 どうもエイミルはさっきから珍しく口数が少ないように思う。珍しく、といっても今日一日の平均に比べればのことであって、彼の普段の様子を知らないのでなんとも言えないが、ともかく気にはなる。

「詳しいことは部屋で話すよ」

 振り向きもせずにそれだけ言って、エイミルは早足で廊下を進む。

 あんまり悪い話じゃなければいいけど、と願いながら、ルーシャスは後を追った。