§4

 エイミルが先に部屋を出ていった後ほどなくして、ルーシャスはひとりのんびりと食事を終えた。食器類を重ねてトレイの上にまとめ、少し考えてから、下げに行くことに決めた。無理を言って泊めてもらうのだし、お客気分でもいられない。

 トレイを持って短い廊下を抜け、階段を降りる。

 と、一つ下の踊り場を通りかかった時、

「……?」

 階段のすぐ脇にある部屋からかすかに物音が聞こえた気がして、ルーシャスは進みながら一度振り返った。そうして次の階段を降りようとしたそのときに、がたんどさりと盛大な音が響いたので、流石に足を止めた。

 そろそろと後戻りして音がしたとおぼしき部屋のドアの前に立つ。じっと待ってもしんとするばかりで、控え目に叩いてみたがやはり何の反応もない。とりあえず取っ手に手をかけてみる。鍵はかかっていなかった。

 じわりと細くドアを開ける。隙間から見えるのは仄明るく揺れる灯りだけ。人影はなし。

 なんだったのだろう、気のせいなはずはないのだが。

 不審に思いながら、いっぱいにドアを開こうとして――

「ぐぁ」

 妙なうめき声とともに、それは阻まれた。

「え? あ」

 慌てて視線を落とすと、そこにあったのは、人の頭。

 何事かとドアの隙間から覗き込んだルーシャスは、目に入った光景に唖然とした。あの黒ずくめの子どもが倒れていたのだ。

 厳密に言うと、倒れているというより、椅子に縛りつけられて床に転がっていた。そして黒ずくめの衣装ではなく上下とも白くなっていた。寝間着のようなゆったりしたズボンに、上は肌着だろうか。薄着のせいで目立つ細い体には、これでもかと言わんばかりに縄がぐるぐると巻かれている。

 これはいったいどういうことだろう。

 しばし言葉を失ったルーシャスだったが、目を瞑って顔をしかめていた子どもが恨みがましそうに見上げてきたので、我に返った。見れば、子どもの額は少し赤味を帯びている。ちょうどそこめがけてドアが当たってしまったらしい。

「ごめ……だい、じょうぶ?」

 まずそんなわけはないであろう状態の相手に向かって、とっさにそう言葉をかけてしまった。

 子どもはむうと唸り、

「痛かったです]

 と低い声で答えた。

「……ごめん」

「いいえ。こんなとこにいた私が悪かったんです。どうぞお構いなく」

 棘を含んだ口調でそう言うと、子どもは顔をそむけた。

 構うなと言われても、この状況で本当に放っていくわけにもいくまい。先刻の件でただでさえ悪い印象を与えているに違いないのに、さらに機嫌を損ねることはしたくない。

 部屋には他に誰もいない。さっきの物音はこの子どもが倒れた音だったのだろう。なら助け起こして、それから縄を解かなければ――と、思ったのだが。

「えーっと……」

 これ以上ドアを開けられないので部屋の中に入れないのだ。ルーシャスがすり抜けられるほどには、ドアの隙間は広くない。無理やり押し開けることもできなくはなさそうだが、再度痛い目を見るのを子どもが了承してくれるとは思い難い。

 とりあえず、不安定にも片手で支えているトレイを一旦床に置くべきか。いや、手が空いたところで何が出来るわけでもない。でも、相手が倒れているのに突っ立ったままでいるのも気が引ける。そう、まずはしゃがんで目線を近づけて、話はそこからだ。

 ルーシャスがおそるおそる腰を落とそうとしたまさにそのとき、

「まだ何か御用でも? なければ早く行ってください」

 子どもが痺れを切らしたように声を上げた。そのために、ルーシャスは中途半端に膝を折りかけた体勢で止まらざるを得なかった。

「いや、でも」

 分かっている。何も出来ないくせにじっと居座られても鬱陶しいだけだろうことは。

 固まっているルーシャスを見向きもせず、子どもはどこか宙に視線を泳がせたままで続ける。

「今の音で誰か来るかもしれませんし、あんまり私にかまってると、また誤解されて問い詰められますよ。そうなったら面倒でしょう? 折角うまく立ち回って誤魔化せたのに」

「それは……」

 皮肉っぽい言い方をされるとこたえる。保身のためにあえて黙っていたし嘘もついた。それは確かなので、返す言葉もない。

「あの、それは、本当に、ごめん……」

 子どもがこちらを振り仰いだ。眉根を寄せて睨むような眼差し。気まずさもあって、ルーシャスはまともに目を合わせられない。

「その、あの時は、何も言えなくて……いや、言わなきゃいけなかった、んだけど……こんなことになって、本当に、君には悪いことを……」

 謝罪の言葉も歯切れが悪く、なんだか言い訳じみてしまって情けなかった。

 責められるのは当然だし、謝ったからといって許してもらえるとも思えない。だが何にしてもまず、自分のせいで捕まって酷い仕打ちを受けているこの子どもを、逃がしてやらなければなるまい。

 意を固めて、ルーシャスは今度こそ膝をついた。勢い込んだせいかトレイを床に置く際にがちゃりと耳障りな音がして、子どもがぎょっとして身を竦ませる。

「あの! 今のうちに逃げられない、かな」

「は?!」

「僕が縄を解くから。その、部屋に入れてもらえたら、だけど」

 ルーシャスの申し出を聞いた子どもは、何度か瞬きしてから、

「いやだめですよそんなの。何言ってるんですか」

 あり得ないとばかりに真顔でぴしゃりとつき返した。

 ルーシャスは拍子抜けした。文句を言いながらも早く逃がせと催促するものと、当然思っていたのに。

「な、なんで?」

「ですから、人が来るかもしれないって言ってるじゃないですか。今逃げたってすぐ気付かれますし、あなたが逃がしたってのもばればれですよ。それじゃ意味ないでしょう」

「ああ……」

 ルーシャスは慌てて振り返り、階段のほうに耳をそばだてた。しかし依然、人が上がってくる気配はない。音を聞いて駆けつけるなら、もうとっくに来てもいいころだ。

「来ない、かもしれない、よ?」 

 だが、子どもはむすっとした顔で首を横に振った。

「今日はもういいんですってば。疲れてますし、こんな時間でしょう、外は寒いだけじゃないですか。大人しくしてれば今晩はあったかい寝床が待ってるんです。たぶん後でごはんももらえるはずです。全部ただですよ。この機会を逃す手はないんです」

「え、でもあの……」

「あなたに心配していただかなくても、頃合いを見計らって適当に脱走する寸法ですから。ほんとに構わないで下さい。分かりました?」

「…………」

 幾つも年下の相手から諭されるように言われ、ルーシャスはすっかり閉口してしまった。助けなければと焦っていたのはこちらばかりで、当の本人はこの状況すら一宿一飯にありつく好機と捉えていたとは。幼さゆえの無知から無茶を言っているだけだろうか。それにしては物馴れた風というか、落ち着きすぎな感もあるが。

「それと、何か思いつめてるみたいなので言っときますけど」

 子どもが一つ溜め息をついた。

「私は別に、あなたのことを怒ってるわけじゃありませんからね」

「?」

 何を言うのだろう。一連の態度からして、かなり怒らせてしまったと思っていたが。

「そもそも捕まったのは私自身の不注意のせいですし。あなたが責任を感じることなんてないんです。分かったらそんなにびくびくしないで下さい、こっちの方が気を遣うじゃありませんか」

 明後日の方向を向いてぶつぶつとそんなことを言う子どもは、表情は不機嫌そうなままだ。意味が分からない。

「えっと、ごめ――」

「ですから『ごめん』はもういいんですってば!」

「あ、ご――はい、うん」

 子どもの一喝を受けて、ルーシャスは無理やり頷いた。意外というか、不可解な怒り方をする。非難轟々に噛みつかれるものとは覚悟していたが、こんなことで叱責を受けるとは想像だにしなかった。

 子どもはなおも渋い顔でじっとルーシャスを見上げていたが、ふと思い出したように「あ」と漏らした。

「そうでした、お金! あなた、あのお金は放っといてよかったんですか?」

「え? ああ、あれは……」

 シャローマ学院への編入生という身分と引き替えにエイミルから受け取った、トランクいっぱいの札束。別段執着していたわけではないにせよ、当面の生活には必要だったに違いない資金。

「あなたのものでしょう? 学生さんがどういう事情であんな大金持ち歩いてたのか知りませんけど、このままみすみす手放しちゃっていいんですか?」

 当然の疑問だろう。この子どもにしてみれば、そのせいで不当な疑いをかけられているのだし、この酷い扱いもそれが一因なのかもしれない。だが、それについて不満を含ませた様子はない。ただ、探るように首をかしげている。

「うん……いや、あんまりよくはない、けど」

 もう考えても仕方がないのだと、ルーシャスは諦めていた。諦めるしかないのだ。今になって思えば、最初に――子どもに盗みの疑いがかけられた時に、はっきりとそれは自分のだと言っておけばばよかったのかもしれない。そうすれば、エイミルもいたことであるし、どうとでも言い繕って自分の手元に残せたかもしれない。だがもう遅い。完全に機を逸してしまった。

「よくはないけど、なんです?」

 子どもが真面目くさって尋ねてきた。

「うん、まあ、いいんだ、もう」

 ルーシャスは床の木目をぼんやり眺めながら答える。

「いいんですか?」

「いや……うん……」

「どっちですか」

「うん……どうしようも、ないし」

「じゃ、私が取り返してあげましょうか」

「うん……え?」

 一拍遅れで驚いて顔をあげると、子どもは何食わぬ顔で肩をすくめる。

「冗談ですよ」

「あ、うん、ごめん」

「今のは謝るとこじゃないでしょう」

「ああ、まあ、うん」

 今のは、一瞬の間に少しでも期待してしまったのが恥ずかしくて、誤魔化しついでに謝罪が口をついて出ただけだ。今日一日ですっかり謝り癖がついたらしい。

 子どもはさっきのように怒りはしなかったが、代わりに呆れ顔だ。

「あなたそんなにぼんやりしてて大丈夫なんですか? もっと真剣に自分の心配をしたほうがいいですよ、私に構ってる場合じゃないです」

 まったくその通りに違いなかった。明日からの身の立て方を本気で考えないといけない。

「ほら、もう行って下さいって」

 相手をするのも疲れたという風に、子どもは軽く顎をしゃくって促した。

「ああ……ま、待って。じゃあせめて、起こすだけでも、しなくて……いい?」

 ルーシャスは相手の顔色を窺いながら、なおも申し出た。“助けてやらねば”などという気概がそもそもおこがましかったのは十分に思い知らされたが、それでも床に転がしたまま放っておくのは、やはり落ち着かない。

 子どもは今度はやや迷いを見せる。

「あー……。いえ、結構です。好きで倒れたので」

「好きで、倒れた?」

 変な言い回しをする。椅子に縛られていては受け身も取れないのに、痛いのを承知で転げることがあるだろうか。

「何ですか! ちょっと、その……物を拾おうとしただけですよ」

 文句があるのかとでも言いたげに子どもは憤って、だが少し顔を赤らめて、最後は尻すぼみ気味になって理由を答えた。

 拾うと言っても、後ろ手にされて自由が利かないのにどうするつもりだったのだろう。それに再び起き上がることもできないのに。

「物って、何を――あ」

 室内に視線をめぐらせようとして、ルーシャスはすぐにそれに気がついた。

 子どもの背後――椅子の背もたれの向こうに、何か小さな丸い物体が転がっていたのだ。陰になっていて詳細は判別できないが、紐がついているところからすると、首飾りか何かだろうか。他にそれらしきものはないし、きっとあれだ、と思った。

「ちょっと、ごめん」

 ルーシャスはいったんドアの隙間から顔を離して、片腕をいっぱいに差し入れた。それで届きそうだ。

「えっ、なん、なんです?」

 腕の下で子どものうろたえる声が聞こえた。

「たぶんあれ……もう少し、で……っ」

 ちっとも説明になっていないことを呟きながら手探りし、ようやく指先がそれに触れた。紐の部分だ。手繰り寄せてしっかり掴み、

「――っと、これ?」

 子どもの顔の前あたりに掲げて見せる。

 改めて見るとそれは、ルーシャスには見慣れない形をしていた。丸い飾り部分は布で作った袋で、花模様の刺繍が施してある。袋の口は紐で複雑な結び目を作って綴じ、残りの紐がそのまま大きな輪になっていた。雰囲気からおそらくは東洋の民芸品だろうと思われるのだが、首飾り、と言っていいのかはよく分からない。

「…………」

 子どもは黙ったまま、それとルーシャスの顔を交互に見た。

「……あ、ごめん、勝手に触ってごめん」

 もしや怒らせたかと心配になって、ルーシャスは慌ててそれを置こうとした。すると子どもが、またむっとした顔をする。

「ですから。あなたは謝りすぎですって。私そんなに怒りっぽくないです」

 そして少し俯き、

「ありがとうございました」

 ぼそぼそと呟いた。

 なんだ、よかった。気にしすぎだったか、とルーシャスは胸をなでおろした。

「あの、ついでにお願いしていいですか」

 子どもがおずおずと切り出した。今度は何だろう。

「その……それ、首に掛けてもらえますか。私、自分じゃ出来ないので」

「ああ、うん、そっか」

 やはり首飾りでよかったらしい。確かに、折角拾ったのにまた床に置くこともあるまい。

 ルーシャスは片手で輪を広げ、子どもの柔らかい癖っ毛に紐が引っかかるのを時々外しながら、何とかその首飾りを掛けてやることができた。

「……どうも」

 子どもは小さく礼を述べると、胸先に落ち着いた飾り部分をじっと見つめる。

 そして、大きく一息ついて、ルーシャスを見上げた。

「さあ、じゃあ本当に私もう大丈夫ですから、そろそろ行って下さい。たぶん、もうすぐ誰か上がってきますよ」

「え、ああ……」

 どうしてそんなことを確信している風に言えるのだろうと疑問に思いつつ、ルーシャスは今度ばかりは黙って従うことにした。脇に置いていたトレイを持って、立ち上がる。

「さようなら、ルース君」

 子どもが言った。

 ルース君、というのが自分のことだとルーシャスは一瞬分からなかった。そうだ、今はブライアン・ルースという名前になっていたのだった。

「あ、さよなら、えっと……えっと」

 同じように返そうとして、相手の名前を知らないことに気がついた。先刻この子どもは、ハディア達に名を尋ねられても無視を決め込んでいたのだ。知る由もなかった。

「名前……聞いても?」

 今尋ねて、教えてくれるだろうか。

「く……“クレイ”で、いいです」

 子どもは、少しばかり逡巡した後、そうとだけ名乗った。

「そっか。じゃあまた、クレイ」

「はい、また」

 クレイが微笑むのを認めて、ルーシャスはやっと落ち着いた気分で、ゆっくりとドアを閉めてからそこを離れた。