§6

 少年二人が階段を上るのを見送って、ハディアはヴィンフリートに向き直った。

「ヴィン。来てもらってすぐに悪いのだけれど、この子の食事を持ってきてもらえるかしら」

「あ、はい。分かりました」

 ヴィンフリートは快く頷く。すると、部屋の中からクレイの声が響く。

「あのー、私、肉も魚も卵も食べられませんから! あと乳製品も!」

「はいはい嬢ちゃん、それ以外な」

 部屋の中に向かってそう返事し、ハディアから「じゃあお願いね」と送り出され、ヴィンフリートは再び階下へ降りて行った。

「菜食主義なの? それともただの好き嫌い?」

 ハディアは部屋に中に入ってドアを閉じながら、からかうように尋ねた。

「体質で仕方なくです。身体に合わないのであって主義や好き嫌いの問題じゃないです」

 やや苛ついた様子で答えるクレイは、壁際で椅子に横向きに座り、背もたれに肘をついている。先刻までその体を縛っていた縄は足元の床にばらけて置かれ、もう肌着姿ではなくシャツを着ており、手袋も元通り両手にはめている。額は髪で隠れてしまっていたが、時折さすっては眉根を寄せていた。

 クレイと反対側の壁際では、キアナが背をもたれさせ腕を組んで立っていた。伏し目がちに、どこか宙を眺めている。

 ハディアはすぐそばの椅子に再び腰掛け、話を続ける。

「肉や魚はにおいがきついものね。たしかにあなたには辛いでしょう」

 訳知り顔で頷くハディアに、クレイはふんと鼻を鳴らした。

「ご理解くださるなら、あなた自身の薬品臭さもどうにかしていただけませんでしょうか」

「薬品、臭い?」

「ええ。これじゃせっかくご飯が来ても食欲失せるんですけど。それでなくてもこれからずっと私を連れまわす気なんでしょう? 始終薬のにおいを嗅いでなきゃならないなんて、やってられませんよ」

「……ごめんなさいね。わたくしも体質上、お薬を飲まないわけにはいかなくて」

「へえ。身体ににおいが染み付くくらい薬漬けなんてびっくりです。そんな人がアルマディナまでの長旅なんて耐えられるんですか?」

「心配はいらないわ。わたくしは、倒れたりしないもの」

「いや、私としては倒れてくれたほうが嬉しいんですけどね。ていうか今すぐ倒れるがいいです」

 淡々と毒づくクレイに、ハディアは不思議そうに首をかしげた。

「あなた、どうしてそんなにわたくしのことを嫌うの?」

 クレイは信じられないと言うように唖然として答える。

「馬鹿じゃないんですかあなた。ひとの商売を邪魔して、しつこく追い回して捕まえて閉じ込めといて、嫌われないとでも思うんですか?」

「だって、あなたのような素晴らしいギフティドを見つけて放っておくわけにはいかないもの。そのギフトは大道芸なんかで終わらせていいような素質ではないわ」

「大道芸馬鹿にするんじゃありませんよ。あとその、 “ギフト”だ“ギフティド”だって、ご大層な呼び方しますけど。そんなありがたいもんじゃないですから。少なくとも私にとっては」

 クレイは馬鹿にしたように言うが、ハディアは熱心に話す。

「いいえ、その能力は神様からの授かりもの。大事にしなければならないの。もっと有用なことに活かすべきなのよ。わたくしたちのもとに――アッザハルにいらっしゃい。あなたのようなギフティドこそ、アッザハルには必要なのだわ」

「あーあーあーそうですか。でもあなたがたが私を必要としようが、私が嫌だと言ったらそれまでなのです。そこで話は終わりなのです。そうでしょう? だいたい私、アッザハルって組織が嫌いですし。入ってもこき使われる予感しかしませんし。私にメリットがないです」

「そんなことはないわ。必要なものは何でもそろえてあげる。アルマディナのきれいなお屋敷で暮らせるのよ。シャローマ学院の特待生として迎え入れてもいいわ。お勉強もできるし、あなたに合った訓練も受けられる。能力を磨いて、もっとふさわしいお仕事ができるようになるでしょう」

「それはそれは。素敵な待遇で」

「そうでしょう? だから――」

「でも私、今の生活に不満なんてないですから。あるとしたらあなたみたいな勘違いしたおせっかいな連中が声掛けてくることですから。放っておいてくれるのが一番うれしいんですけど」

「でもね、わたくしはあなたのために言って――」

「でーすーかーらー! もう、さっきから何度同じことを言わせるんですか。余計なお世話ですって。なんであなたそんなに聞きわけがないんです? 私のことは私が決めるのです。あなたがよかれと思おうが私が要らぬと言ったら要らないのです!」

 うんざりした様子で吠えるクレイ。しかしハディアは退かない。

「いいえ。あなたは正しい判断をするには幼すぎるわ。まだ大人の導きが必要なの」

「それなら心配ご無用です。私、見た目ほど若くないので。お導きなんてなくても全く問題ないです」

「まあ、ではいくつなの?」

「あなたに教える必要はないですね。私も曲りなりにも女ですから、あんまり年齢なんて言いたくないですし。聞きたければまずご自分の年齢から仰ってくださいませんか。私がそれに応えるかは保証しませんけど」

 クレイは澄まし顔でそんなことを言う。

「わたくし、は……」

 ハディアは急に勢いを失って、押し黙ってしまった。

 悪戯めいた笑みを浮かべるクレイ。

「おや、どうしました? あなたも見かけによらず結構なお歳なんでしょうか? まあ、百歳とか言われても別に驚きませんよ、私。知り合いにそういう人いますし」

 その言葉が耳に入っているのかどうか、ハディアは何か言いかけたように口を半開きにしたまま呆然と止まっていた。その違和感に、クレイがにやにや笑いをやめて怪訝そうに身構える。そこで、キアナが初めて顔をあげ、ハディアに歩み寄った。

「ハディア」

「…………」

「ハディア。どうしました」

「え? あ……ああ、ごめんなさい、わたくし……」

 キアナに肩を揺さぶられ、ようやく気がついた様子で、ハディアは視線を巡らせた。そしてこめかみに手を当て、少し俯いて目を伏せる。

「気分がすぐれないのでしたらさっさとお休みになったらいかがです? もう話すこともないですし。というかそもそもあなたが勝手にお話ししにきただけなんですし」

 クレイはさっさと出ていけと言わんばかりに退室を促した。

「そう、ね。ごめんなさい。そろそろ失礼しましょう。あなたの食事も来たみたいだし」

 ハディアが力なく微笑んだちょうどその時、ノックの音が響いた。キアナがドアを開けると、長身の青年が顔をのぞかせる。

「あれ、何かあったんですか?」

 室内の三人の様子に、ヴィンフリートは眉をひそめた。

「何でもないのよ」

 ハディアは言いながらふらりと立ち上がる。

「わたくし、少し疲れてしまったから、先に部屋に戻らせてちょうだい。あとをよろしくね、ヴィン」

「え? あ、はい――って、俺ですか?!」

 ハディアと、それに従ってキアナも部屋を出て行ってしまい、残されたヴィンフリートは両手で食事の乗った盆を持ったまましばし立ちつくした。

「ごはん。まだですか」

 クレイが声をあげて、ヴィンフリートはようやく部屋の中に入った。

「ほらよ。言われた通り肉も魚も卵も乳製品抜いてきたから」

 そう言って盆が机に置かれると、クレイは壁際の椅子を机のもとまで引っ張ってくる。しかし食卓を見るなり、顔をしかめた。

「……なんですかこれ」

「何って何が?」

 ヴィンフリートはクレイの目の前に並んだ料理を見まわす。グラスの水に、丸パンとスープ、それから数種類の豆を混ぜたサラダ。大変に質素な献立だ。

「『何って何が?』じゃないです! このスープ肉入りじゃないですか」

「肉ってかベーコンな。でも念入りに避けて野菜しか注いでないぞ」

「避けたって肉の成分が溶け込んでるからだめなのです」

「ええ? そんなのもだめなのか」

「だめです」

 クレイは断固として言い張った。

「そんなこと言ってたらお前さん、世の中のほとんどの料理食えないじゃないか」

「食べられないものは食べられないんですから仕方ないでしょうが」

「まあ、そりゃあ仕方ないが。じゃあ他のは食べられるな?」

 すると、クレイは不満げな顔で豆のサラダを睨む。

「豆がものすごく缶詰臭いんですけど」

「贅沢言わんでくれ。注文通りにしたら他にたんぱく源がなかったんだよ。缶詰めだって食いものなんだし、死にゃあしないだろ」

 そう言われて、しぶしぶと椅子に座るクレイ。手袋をとって手を拭い、胸の前で合掌して何事か呟いてから、フォークを取って豆をつつき始める。ヴィンフリートはほっと一息ついて、クレイの斜向かいの空席についた。

 時折水を飲みながら、非常にまずそうに豆のサラダを平らげた後、クレイはもそもそとパンにかじりつく。

 その様子をじっと眺めるヴィンフリートを、クレイは無視し続けていたが、やがてしびれを切らしたように不機嫌な顔を上げた。

「あの、何か?」

「いや、真剣に食ってるから。うまいか?」

「豆よりは」

「そりゃあよかった」

「ジャムがあれば、もっとおいしいんですけど」

「晩飯だぞ? 朝飯じゃないんだから」

「じゃあ明日の朝ごはんにはジャムが出るのですね?」

「でるでる。楽しみにしとけ」

 そう言われて、クレイは「ふむ」と真顔で頷いた。

 それを見て、ヴィンフリートが口元をほころばせる。

「……何ですか、さっきから。気持ち悪いですね」

 クレイは声を低めて、微笑む青年を罵倒した。しかし、当の青年は照れくさそうにより一層にやける。

「いやいや、悪い。なんかお前さん見てたら、うちの妹を思い出しちまって」

「妹?」

「そう、妹。つっても義理のだけどな。俺が養子に貰われた先のお嬢さんだから」

「ほう。それで?」

「うん。初めてあったころがお前さんぐらいの背恰好で、それはもうつんつんしてなかなか懐いてくれなかったのをちょっと思い出してな。ここ一年会ってないんだが、今回やっとアルマディナの家に帰れるんで、楽しみなんだよ。一層美人になってるだろうなぁ、あいつ」

 頬を緩ませっぱなしで語るヴィンフリートを、クレイは冷めた目で見る。

「妹さん、さぞ鬱陶しがってるでしょうね」

「そんなことはないぞ、失敬な。両想いなんだからな!」

「はいはい、よかったですね可愛い妹さんで」

 青年の抗議をさらりと流して、クレイはパンをかじる作業に戻った。

 ヴィンフリートは話を切られて不服そうだったが、ため息をひとつついて話題を変える。

「そういえば、ハディアからいろいろ話があったと思うが――」

「色々ってほどでもないです。アッザハルに入れとか、アルマディナに連れてくとか。ずうっとおんなじ話の堂々巡りでしたけど」

「そっか。で、大人しくついてくる気になったか?」

「馬鹿を言わないでください、そんな気さらさらありませんよ。だいたい何なんですか、あのお節介薬漬け女。人のいうこと聞きやしませんし、頭おかしいんじゃないですか」

「ハディアのことか? そんなこと言うなよ、失礼だぞ。あの人はまあ、ちょっと浮世離れしてるけど、純粋なだけなんだよ。お前さんのためになると思って誘ってるんだし」

「善意なら何しても許されると思ってるなら大間違いですよ。こんな拉致まがいのことして、それでも自分が正しいと思いこんでるんですからタチが悪いですあの人。ああいう突っ走る上司は部下がちゃんと抑えてないとだめじゃないですか。物の分別くらいわきまえさせてください」

「そういわれてもなぁ。俺はハディアに意見できるような立場じゃないし」

 適当にあしらおうとするヴィンフリートを、クレイは「はん」と鼻で笑う。

「やっぱり下っ端なのですね。あの冷血のっぽ女にも頭が上がらないんですよね」

 すると、ヴィンフリートは少しむくれた。

「確かに今は下っ端だが、俺はこれでもエリートの端くれなんだぞ。一応シャローマ学院卒だし。ハディアとセラーさんが偉すぎるだけで」

「へーえ、あんな誘拐魔がそんなにお偉いさんなのですか。アッザハルも先が思いやられますね」

「……お前さん、うちになんか恨みでもあんのか?」

「さも世のため人のためみたいな顔してのさばってるのが気に食わないだけです。とにかく私はあなたがたについてく気なんてありませんから」

 そう吐き捨てて、クレイは最期のパンのかけらを口に放り込み、グラスの水を一気に飲み干した。

「食うもん食っといて偉そうなこと言うのな」

「営業妨害して私の今日の稼ぎをぱあにしたのはそっちですよ。このくらい賠償して当然でしょう」

 クレイは食べ始めと同じように合掌しながら、ヴィンフリートの突っ込みを一蹴する。

「ごちそうさまでした。下げていいですよ」

「はいはい、お嬢様」

 ヴィンフリートは肩をすくめて、再び盆を持って席を立った。ドアを開けて出ていこうとして、はたと立ち止って振り返る。

「俺がいなくなったら、お前さん逃げ出すんじゃないだろうな?」

「まさか。寒いなか逃げ出しても損なだけですからそんなことしませんよ。しかたがないので今晩はここに泊ってさし上げます」

「……そうかい。じゃあごゆっくりどうぞ、お嬢様」

 尊大な態度のクレイに、ヴィンフリートは呆れた様子で手を振る。戸が閉まる寸前、

「あの、ちょっと!」

 クレイが強い口調で呼び止めた。

「あなたはまともそうなので忠告しといてあげますけど。あのお節介女と冷血女には気をつけたほうがいいですよ」

 ヴィンフリートは一瞬きょとんとして、それから渋面を作った。

「いい加減にしろよ。お前さんがハディアとセラーさんを嫌いなのは分かったが、俺はお前さんに付き合ってやる気はないからな」

「そうじゃないです能天気野郎。あの二人、それぞれ何かよくないことを考えてます」

「何かって何だよ。何でそんなこと――」

「具体的に何を考えてるかまでは分かりません。けど隠しごとをしてるのは分かります。ひどい嘘つきのにおいを感じますから」

 目をそらさずに言うクレイに、ヴィンフリートも顔色を変える。

「……それが、お前さんのギフトってわけか?」

「あなたがた風に言うなら、そうですね」

 クレイは臆面なく言いきった。

「し、しかしまあ、誰だって隠しごとの一つや二つ、あるだろ」

「そうですね。あなたにも、可愛い妹さんのことで何かあるみたいですしね」

「!」

 指摘されて頬をぴくりとひきつらせるヴィンフリート。それを見てにやつきながら、クレイは続ける。

「でもあなたには悪意がありません。それに比べて、彼女らの気配は異様ですよ。本当に気をつけたほうがいいです」

 ヴィンフリートは、真剣な表情でしばし固まっていたが、頭を振って答える。

「俺は、同行者にどんな隠しごとがあろうが、無事にアルマディナにたどり着ければそれでいい。今のは聞かなかったことにするからな。お前さんも、今後は余計なこと言って和を乱すようなことは勘弁してくれ。じゃあな、大人しく休めよ」

 一気にそれだけ言うと、ばたんとドアを閉め、去っていった。

「和を乱すなも何も、私あなた方と一緒には行きませんってば」

 部屋にひとりきりになったクレイは、ぼそりとそう呟いて、ひとつ大きな欠伸をした。

***

「水を」

「……ありがとう、キアナ」

 暗い部屋。ベッドに横になり目を閉じていたハディアは、ゆっくりと上体を起こして、差し出されたグラスを受け取った。

「薬は飲んだのですか?」

「ええ、夕方に」

「寝る前にもう一度飲んでおいたほうがいいのでは?」

「……そう、ね。明日動けなくなったら元も子もないものね」

 ハディアは弱々しく頷き、水を一口飲む。

「あの子どもは、どうするつもりですか。あれでは、言ったところで素直に従いそうにありませんが」

 キアナは立ったままで淡々と尋ねた。

「そうね、あんなに頑固だとは思わなかったわ。なんとかアッザハラに迎え入れたいけれど……」

「なぜそうあの子にこだわるのです?」

「前からときどき引っかかる子だったのよ。いつか捕まえてもらおうと思ってたんだけど、今日偶然にも実物に会えて嬉しかったものだから……あら、ヴィンフリートとは気が合うのかしら、仲良くお話してるみたい。彼に任せておけば大丈夫かもしれないわね」

 ぼんやりとグラスを眺めながら、楽しそうに呟くハディア。

「彼の手に負えるとも思えませんが。すぐに逃げられるのでは?」

「そう? ……でも、あの子を見失うことはないわ。とても目立つ気配をしているもの」

 ハディアは虚ろ気に、しかし優美に微笑む。

「どこにいても、きっと見つけて連れ戻してみせるわ」

 その様子を、キアナは無表情で黙って見降ろしていた。