§2
“職員”だという初老の女性に案内され、ルーシャスとエイミルは階上の一室に通された。二人に割り当てられたその部屋は、奥に寄せて両端にベッドが並び、手前の空いた部分には小さな机と椅子も備えてあって、思った以上に立派なものだった。
二人部屋と聞いて当然のように二段ベッドを想像していたルーシャスは、自分が普通の一人用のベッドを使ったことが一度もないことにそこで初めて気が付いた。なにせ孤児院でも寄宿寮でもずっと、二段ベッドが並んだ大人数部屋だったのだ。
柔らかい毛布の上に腰かけ、火が入れられたばかりのストーブにあたりながら、これが人生一番で最後の贅沢になるかもしれないなと、ルーシャスは思った。
「全く、間の悪い話だな」
案内の女性が立ち去り二人きりになってから、ルーシャスが事の顛末を語ると、椅子に座り机に頬杖をついて聞いていたエイミルは、頭を抱えてそう呻いた。
「だいたいあの子は何なんだ? ハディアさんたち、探してたらしい割に名前も分かってないみたいだし、シャローマ学院と何か関係あるのか? 格好も変だし」
しまいには八つ当たりのようなことを言い出すエイミル。
「まあ、格好はともかく……だいぶしつこく追われてるような感じでは、あったけどね」
ルーシャスは、子どものげんなりした顔を思い出して答えた。
エイミルは難しい顔で考え込む。
「セラーさんたち、僕が昼に到着する前からずっとあの子を追いかけてたんだから、そりゃあしつこいにもほどがあるだろ」
「そうなの?」
「だと考えるしかない。君、今日あの子と駅まで一緒に乗って来たって言ったろ」
「うん」
「僕は君と話をした後、真っ直ぐここに向かったんだ。そして僕がここに着いたときにはもうハディアさんがいて、セラーさんとリヒターさんは用事で出ていた。さっき二人を迎えたハディアさんの言葉からしても、その用事っていうのはあの子を捕まえることだったんだろう」
「はあ」
「だからあの子は、この町に来て一時間もしないうちにハディアさんたちと何事かあって追われることになった、ということになるんだけど――何であんなに執拗に、真昼間から日が沈むまで追う必要があったんだと思う?」
「うーん……」
まさかそんなに長い時間追われているなど思いもよらなかったが、だとしたらますますあの青年達の目的が分からない。
「よっぽどだね、出発の予定を繰り下げてまでなんて」
「そうさ。今だって盗みを疑ってるのに警察に届けるでもなし。君を一緒に連れて来たのも、夜間徘徊してたからというより、あの子と一緒にいたからってほうが理由としては大きそうじゃないか」
「なのかな……」
「後で呼びだされて色々聞かれるだろうけど、あの金のこと上手くごまかせるんだろうな、君は」
エイミルは責めるような口調で問う。
「ごまかすも何も……あの子が事情を話したら、僕は言い逃れできないと思うんだけど」
苦々しい思いでエイミルの顔色を窺いながら、ルーシャスはそう答えた。今こうしている間にも、あの子どもはハディア達に濡れ衣を訴えているかもしれないのだ。
だがエイミルは動じる様子もない。
「どうかな。あの子はずっと君のこと黙ってたんだろう? 今更本当のことを喚いても、ただの言い訳にしか聞こえないさ。君が口を滑らせなければ、だけど」
「それって……それじゃ、あの子があんまり可哀そうだよ」
控えめに非難をこめて言うと、エイミルが鋭い視線をよこす。
「じゃあどうする? 君が代わりに窃盗容疑で逮捕されるか、君も金は道端で拾ったんだと無理な言い訳をするか、それとも、替え玉の謝礼として僕から受け取ったって白状するかい?」
「いや、それは……」
ルーシャスは返答に窮して下を向いた。どれも出来ることなら避けたい。エイミルも、ルーシャスにはそんなことが出来ないと分かっていて訊いているのに違いないのだから。
エイミルは「あのさ」と諭すように語り始める。
「あんまり心配しなくてもいいと思うんだ。君が想像するほど、あの子は酷い罰を受けることにはならないだろ。まだ子どもなんだし、少なくとも例えば君が逮捕されて受ける処遇よりはずっと軽いはずだよ。それにハディアさんだってあの通り優しい人だし、どうにかしてくれるさ」
「そうかな……」
しかし、あのキアナ・セラーという若い女性は冷たく厳格そうで、そう生易しく済ませられるとは思えない。
「そうだよ。それにあの子は、金の問題以前に、他の理由があって連れてこられたんだ。僕らが気にしすぎる必要はない」
エイミルはきっぱりと言い切った。
「だいたい、今考えるべきは君自身のことだろ。金も荷物もなくなって、これからどうするのさ」
「ああ、うん……」
確かにその通りなのだが、どうすればいいものかルーシャスには全く思いつかない。
エイミルは渋い表情で溜め息を吐く。
「あの金を取り戻すことはもう出来ないし。まったく、せめてもの足しにと思って君に渡した金が、こうして仇になるとはね」
「……ごめん。折角用意してくれたのに」
気まずさを感じながら、ルーシャスは謝った。
「まあ、今となっては仕方がないだろ、次を考える。君を『友人だから泊めてくれ』って頼んだのだって、こうして邪魔されずに打ち合わせするためなんだ。君が呼び出される前にさっさと対策を練らないと」
エイミルは責めるでもなく、しかし眉間の皺は相変わらずで、面倒そうに腕を組む。
なるほど確かに、互いの状況がよく分からなかった中でもう一度話し合う機会を得られたのは、ルーシャスとしてもかなり助かっている。
「金のことは、あの子が何と言おうと君はしらを切りとおすんだ。明日には僕は出発するし、君も家に帰るふりをすればそれで終わり――いや、そういえばハディアさんたち、変なこといってたよな」
さくさくと話をつけようとした途中で、エイミルは顔を上げた。
「あ、うん。アイルランドって言ったら、顔色変えて……」
あれはどういうことだったのだろう。ルーシャスを泊める気になったのも、単に家が遠すぎるからという理由ではない様子だった。
「アイルランドで最近何かあったか? 学校でもそんな話聞いてないし、新聞にだってそんな記事なかったし」
「さあ……僕も出たっきり一度も帰ってないから」
ルーシャスがそう言うと、エイミルはぴくりと眉を吊り上げる。
「まさか君、本当の出身地を?」
「え、いや違うよ! 本当はダブリンなんかじゃなくて、よく覚えてないけど、もっとずっと田舎だったから……それでばれることはない、と思う」
慌てて説明する。さっきはルーシャスも、出身地で“ルーシャス・ブライア”だと疑われたのではと思ったが、そういうわけでもないらしかった。
「なら、いいけど。くれぐれも妙なことは言わないでくれよ」
そう念を押され、ルーシャスは深く頷いた。
「で、だ。さっきのハディアさんたちの言い方からすると――」
エイミルが話を戻そうとしたそのとき、
「おーい、ちょっといいか」
入口の戸を叩く音とともに、間延びした声が響いた。
エイミルが、「ほら見ろ、もう来た」と小さく舌打ちして戸を開けに椅子を立った。
「君はあんまり喋るなよ、僕に話を合わせてくれればいいから」
ルーシャスに向かって低い声で釘を刺してから、エイミルは取っ手に手をかける。
「よう、親友同士水入らずのところ悪いな」
開いた戸の陰から、ヴィンフリートが顔を出した。
「お前さんたち、晩飯まだだろ。軽くだが用意してもらったんだ、食べな」
そう言って、両手で持った大きな四角い盆を差し出す。そこにはパンの盛られた籠や皿やグラスや水差しが並んでいた。
エイミルの緊張した顔が少し和らぐ。
「わざわざ持ってきていただいてすみません、リヒターさん。有難うございます」
「ありがとうございます」
エイミルが盆を受け取りながら礼を言い、ルーシャスも立ちあがってそれに倣った。
ヴィンフリートはにかりと笑う。先刻よりもずっと気さくな笑顔だった。
「あの、リヒターさん」
机に盆を置いたエイミルが、おずおずと切り出した。
「なんだよ、ヴィンフリートもしくはヴィンでいいぞ。齢も近いんだし」
「はい……ではヴィンフリート、少しお話したいことが」
「うん?」
「その、彼――ブライアンは、明日家に帰れるんでしょうか?」
深刻な表情で、エイミルはそう尋ねた。
「あー、なぁ……」
ヴィンフリートは困ったように金茶色の頭髪を掻き、ルーシャスの方を見る。
「えーっとブライアン、あとで詳しく話すがな、今はお前さんをアイルランドの家に帰すわけにはいかないんだ。たぶん学校の寮に戻ってもらうことになると思う。学校の方には俺達が連絡を入れるから――」
「あの! そのことなんですけど」
ヴィンフリートを遮って、エイミルが口をはさんだ。
「学校にはどうか、黙っていてもらえませんか?」
一瞬目を見開いて、ヴィンフリートは首を振る。
「いや、そういうわけにはちょっと……帰宅させるのは本当にまずいんだって。家族のことも心配だろうし、帰りたいって気持ちはよく分かるが」
やはりただ事ではないのだろう。しかし実際は家族どころかすっかり縁もない故郷のことなので、ヴィンフリートから同情の眼差しを向けられても、ルーシャスはどんな表情をすればいいのか非常に困った。
エイミルは畳みかけるように訴える。
「彼には僕からちゃんと寮に戻るように説得します。でも、止められたのに寮を抜け出していたことがばれたら、彼は厳しい罰を受けます。彼だって家族が気がかりな一心で、ただでさえ辛いのに……」
どうやらヴィンフリートの話に適当に合わせているらしい。
先刻、ルーシャスのことを見送りにきた友人だととっさに作り話をしたときもそうだったが、エイミルの機転には感心するばかりである。
さも友人の身を案じているかのように項垂れるエイミルに、ヴィンフリートは弱ったなという顔で唸った。
「だけどなぁ、寮でも生徒がいなくなって今頃騒いでるところじゃないのか? 無事を確認させないと、学校側も気が気じゃないだろうし」
もっともな話だ。だが、ブライアン・ルースなどという名の生徒はいないのだから、学校に連絡を取られればすぐにばれてしまう。ルーシャスが何者かと追及されては、エイミルだって危ない。
だからだろう、エイミルは強く横に首を振る。
「いえ、それは大丈夫です。休暇中は寮監の目も緩くなるし、寮生の仲間が協力して上手く隠してくれているはずなので。だろ、ブライアン」
「う、うん」
頷くルーシャスだったが、もちろんこれはでたらめだ。
それでも確かに、寄宿寮で長く共同生活をしている生徒間の連帯感は強く、たまに無断外出する者――大抵は恋人に会いに行くためらしい――を庇って点呼時など代わりに返事をしてやる、というような光景を見かけることはある。それを寮監に告げ口するとあとあと仲間内でやっていけなくなるので、見て見ぬふりをするのが暗黙の了解なのだった。
「おいおい、誰か止めなかったのかよ全く……無駄に結束するんだよなあ、お前さんたちぐらいの齢ってのは」
ヴィンフリートは呆れたように溜め息を吐いた。
「お願いします、どうか秘密にしておいて下さい。ブライアンを黙って送り出してくれた生徒たちも、このことが知れたら罰せられるでしょう。彼らの気持ちを無下にしないでやって欲しいんです」
エイミルは再度詰め寄った。
眉を寄せ、エイミルとルーシャスを交互に見比べるヴィンフリート。腕を組んで目を閉じ、考えこみ、そして口を開いた。
「明日の朝、絶対まっすぐ学校に戻るんだろうな、ブライアン」
「え?」
半目でルーシャスを睨み、ヴィンフリートは続ける。
「ルーシャスも他の友達も、皆お前さんを心配してくれてるんだろ。それを裏切るような無茶はしないな?」
そうすれば見逃してやる――そういう言い方だった。
「あ、はい……はい、しません」
ルーシャスは繰り返し頷いた。
すると、ヴィンフリートはにやりと笑う。
「よっし、絶対な。だが知らんぞ。既にお前さんがいないことがばれてて学校で騒ぎになってようと、明日のこのこと戻ったお前さんがどんなにこっぴどく叱られても、俺は知らんからな。それでもいいんなら黙っとく」
そんな言葉も、嫌味や皮肉には聞こえなかった。
エイミルは顔を輝かせる。これは演技ばかりではあるまい。
「有難うございます! 重ねがさね無理を言って、本当にご迷惑でしょうが……」
「いやいや、お前さんたちの微笑ましい友情に免じてやるさ。ただし、これもここだけの話な」
ヴィンフリートは口の前に人差し指を立てた。
「ハディアとセラーさんには、ちゃんと学校に連絡したことにしといてくれよ。特にセラーさんは決まりとかに厳しいから、お前さんたちに頼まれて目をつぶったなんて知れたら、俺もただじゃ済まないんだ。見たろ? あの彼女の気難しそうなこと」
おどけるヴィンフリートに、エイミルもルーシャスも苦笑するしかなかった。
「さ、じゃあゆっくり飯にしな、腹減ってるだろ。俺の部屋この隣だから、何か用事があったら声掛けてくれ」
ひらひらと手を振り、ヴィンフリートは戸を閉めた。
戸の向こうでくぐもった足音が遠ざかる。ほどなくして隣の部屋のものらしい戸が開き、そして閉まる音。
「……はぁ」
エイミルがぐったりと椅子に座り込んだ。
「大丈夫?」
ルーシャスは立ったままでひっそりと尋ねた。
「ああ、少し緊張したけど。はったりも言ってみるもんだな」
髪を掻きあげて、エイミルは大きく息を吐く。
「多分、これでブライアンなんて生徒がいないこともばれないし、君への当たりも和らぐだろ。リヒターさんが、嘘吐きじゃなければね――僕らみたいな」
そうして皮肉げに口元を歪めた。
言われてみればそれもそうかと、ルーシャスは内心で同意する。自分たちは必死で偽装工作しているというのに、他の人間が正直な言動をとると信じていては、矛盾というものだ。
「でもこれ以上はどうしようもないからな、彼が見た目通りいい人であることを願うよ。……いただこうか、食事」
エイミルがすっと背筋を伸ばし、吹っ切るようにそう言った。
「あ、うん」
頷いて、ルーシャスは空いているほうの椅子へとまわる。
ヴィンフリートが軽いといった食事は、確かに簡素なものだったが、ルーシャスには十分立派な夕食に見えた。パン籠に山と盛られているのはバターロール、それからハムとチーズの並んだ皿、小さなカップに注がれた野菜スープ。
狭い机にそれらを並べ、少年二人は向かい合うかたちで席に着いた。
「お祈りは、するの?」
ルーシャスは何となく訊いた。寮の食事ではいつも、生徒がずらりと並ぶ食卓の前で、監督生が食前の祈りを朗々と暗唱するのだ。何人かいる監督生が交代でするので、もちろんエイミルも幾度となくその役を務めていた。
だが、エイミルは顔をしかめる。
「なんでわざわざそんなこと。たった二人しかいないのに馬鹿みたいじゃないか」
「そっか」
監督生というのはいついかなる時も品行方正という印象をルーシャスは抱いていたので、少し意外に思った。でも、案外皆そんなものなのかも知れない。
祈りの詞は無しに、エイミルは手を拭いて水差しに手を伸ばす。
ルーシャスも無言で食事を始めようとして、ただ昔からの癖でつい十字を切っていた。
――その時。
がたん、と、さっき閉まった隣の部屋の戸が勢いよく開く音がして、瞬く間に足音が近づいてきた。エイミルが凍りつき、ルーシャスも振り返って身構える。
「すまん、さっきのは違った! というか忘れてたんだが――」
戸の向こうで張りあげられるヴィンフリートの声。
「ルーシャス、それ食べ終わったら下に来いよ、明日の予定を話し合うんだ。俺は用事で先に降りてるから、いま隣訪ねても誰も出ないからな! じゃ後で! ゆっくりでいいからな!」
そうして足音は来た方と反対方向へ遠ざかり、階段を降りる音が微かに響いて、消えた。
ルーシャスたちは同時に胸をなでおろした。
「……やっぱり、一応した方がいいか、お祈り」
「……かな」
それからエイミルは、いつも通りの文句を、いつもよりはだいぶ抑えた声で、しかしいつも以上に丁寧に唱えた。
ルーシャスはといえばいつものように、手を組んでぼんやりとそれを聞いたのだった。