§1

 なぜここにエイミルがいるのだろうか。

 ルーシャスがまず思ったのはそれだった。上手くいったのなら、もうとっくに海の対岸にいるはずだろうに。

「さあ、みんな奥に入って頂戴。開けっぱなしだと部屋が冷えてしまうわ」

 ルーシャスが色々と考える間もなく、出迎えてくれた白い服の女性が、玄関口で留まっている四人を優しく促した。

「あ、待って下さい、ハディア。まだ荷物が」

 青年が玄関先の石段を降りて、そこに置いてあった黒い巨大トランクと上に載せた小さな革のトランクとを、ようよう抱えて上がって来る。

「まあまあ重たそうね、ヴィン。全部この子の? ずいぶん大荷物ね」

 白い服の女性が、青年を通したあとの扉を閉めながら、そっぽを向いたままの子どもに笑いかけた。

 子どもは否定も肯定もせずにあらぬ方向を睨んでいる。その手には、先刻の成り行きで拾われたルーシャスのトランクが提げられたままだ。

 ここまで歩いてくる道中、不機嫌な顔でだんまりを決め込んでいた子どもに向かって、返してくれと言いだすことがルーシャスはついに出来なかったのだ。おそらく青年たちも子どもが最初から持っていたものと思っているに違いない。そこに自分が所有権を主張したらまた説明が面倒なことになるのではと思うと、ルーシャスは結局口をつぐむしかなかった。

 いや、どのみちここから解放されて自由の身にならなければ、トランクが戻ろうが何にもならない。そしてその望みは今のところ限りなく薄い。

「この荷物がまた、ちょいと面倒なんですがね」

 床の上にトランクを置いた青年が、腰を叩いて困り顔で笑う。

 巨大なほうは子どもの、小さいほうは例の札束が詰め込まれたもので、面倒というのは重量でなく中身によって後者のことを指している。

 エイミルのほうをちらと窺うと、やはり見覚えのあるトランクに気付いたらしく、顔をこわばらせている。そしてルーシャスと目が合うと、「どいういうことだ」とでも言いたげな厳しい視線を寄越した。

 白い服の女性はエイミルの表情は目に入らぬまま、不思議そうに二つのトランクを眺めて青年に尋ねた。

「これがどうかして?」

「いえ、この子らの処遇に関係してなんですが……少し込み入った話になるかと」

 青年はルーシャスと子どもを交互に見ながら言葉を濁す。子どもの肩をずっと掴んだままの若い女性が、相変わらず硬い表情で口を開く。

「ハディア、詳しい話は後でお聞かせします。それで、今からでは船があちらに着く時間も遅くなるので、出発は明日に延ばしましょう。私どもが手間取ったせいで申し訳ないのですが、よろしいですか」

「ええ、結構よ。そうなるかしらと話していたところだったもの。ねぇ、ルーシャス」

 突然自分の名前を呼ばれ、ルーシャスは虚を突かれた。だがそれは明らかに自分に向けられた言葉ではない。そもそも名乗ってすらいないのに。

「……あ、はい! そうでした」

 ぎりぎり不自然にならない間をおいて答えたのは、エイミルだった。

 若い女性が、エイミルへと顔を向ける。

「そう。あなたを迎えに来たのに早速足止めする形になって悪いと思うけど、どうか容赦して欲しい」

「いいえ、とんでもありません」

 エイミルは恐縮至極といった感じで首を横に振る。

 そうか、と、ルーシャスはようやく状況を把握した。

 エイミルが“ルーシャス”と呼ばれていて、船がどうの、迎えがどうのという会話――ここは学院から来る迎えとの待ち合わせ場所で、白い服の女性をはじめとした大人三人は迎えの人間で、エイミルはちゃんと“ルーシャス・ブライア”を演じていたわけだ。

 しかし、では青年と若い女性の二人は一体どういうつもりで、目的であるはずの学生をこんな時間まで待たせたまま、一人の子どもを追いかけていたのだろうか。それとも、子どもがそもそも一行の一員で、逃げだしたのを連れ戻そうとしたのか。

 どう考えても、色々と不自然だし穏やかではない気がする。

「ではキアナ、そのお嬢さんはともかく、この男の子のほうはどうするの? あまり遅くまで引き止めるとご家族が心配なさるでしょうに。ねえ?」

 白い服の女性が、若い女性に尋ねながらルーシャスに振り向く。

「え、いえ、僕は……」

 どう切り返すべきか。とりあえずエイミルの方は全く疑われていないようなので、ここでルーシャスが下手を打って台無しにしてはならない。エイミルは少し落ち着いた様子だったが、やはり不安そうに眉根を寄せている。

「彼にはざっと話を聞いた後、ここの職員に頼んで家まで送らせましょう。それでいいかな、少年?」

 若い女性がほとんど断定的に尋ねた。

「いやあの、わざわざ送っていただかなくても、大丈夫ですから」

 家なんか無いのだから、送られても困る。

「お前さんが大丈夫でも俺らがすまないんだって、青少年を夜の街中に放り出したとあっちゃな。どんなに近くでも送るぞ」

 青年がくだけた調子で言う。たぶん根底にあるのはきちんとした親切心なのだろうが、今はそれも有難迷惑だ。

「いえ、近くというわけじゃ――」

「ああそうか! この辺じゃないんだったよな。さっきは聞きそびれたがどこの学生だ? その制服は……お?」

 顎に手をやりルーシャスの格好を眺めていた青年が、ふと片眉を上げた。そしてばっとエイミルの方を振り向く。

 エイミルが、再び顔をこわばらせた。

「お前さんたち、同じ学校の生徒か?」

 言われてから、ルーシャスはまずい、と思った。コートの前をきちんと留めておけば良かったかと後悔したが、

「あら本当、制服が一緒ね。そういえばコートも……気が付かなかったわ」

 白い服の女性が壁に掛けられていた駱駝色のコートをしげしげと眺めて言うので、結局無意味かとさらに落ち込んだ。

「なんだなんだ、もしかして同級生とか。あそこは結構でかい学校だけど、まさか知り合いだったりするのか?」

 青年は興味深げだ。

「え、えっと、あの……」

「そうです」

「!」

 口ごもるルーシャスを遮って、エイミルがはっきりと頷いた。そして続ける。

「彼は、僕の友人です」

 エイミルの口からそんな言葉が飛び出るとは夢にも思わなかったので、ルーシャスは訳が分からなくなった。どういうつもりなのだろうか。

「あの、彼がどうかしたんですか?」

 本当に心配だというような口調で、エイミルは尋ねた。

「いやまあ……ちょっとな。大丈夫、大したことじゃない」

 青年は微笑んで誤魔化した。

「ルーシャスのお友達なら、なおさら大切に送ってあげないと。ロンドンよね、少し遠いけどまだ列車は出ているんじゃなくて?」

「ハディア、学校は確か今日から休暇だと。彼も帰省してきたのでしょう」

「あ、そうだったわね。休暇に合わせてルーシャスを迎えに来たのだものね」

「じゃあやっぱりこの近くに自宅があるんじゃないか。なんでうろついてたんだ、少年? 家帰る前に夜遊びでもする気だったのか? 大人しそうな顔して」

 口々に言う大人たちに、ルーシャスはもはやどう対応していいやら困り果てた。

 しかし、それにはエイミルがごくごく冷静に答える。

「いえ、違うんです。彼の家はここらではなくて……彼は、僕を見送りに来てくれてたんです」

 すると、大人三人は三人ともが少し驚いたようだった。もちろん、ルーシャスも驚いた。

「僕は駅まででいいと言って別れたんですが、彼はたぶん船が出るときにもう一度見送るつもりで待っていて、こんな時間まで――そうだろ?」

 エイミルが、ルーシャスに向かって呆れたように言った。ルーシャスは半ば反射的に頷いてしまう。

「それで……本当に勝手なお願いなんですが、彼も今晩ここに泊めてもらうわけにはいかないでしょうか? 彼の家は遠くて、帰るのは無理があるので……」

 実に真摯な様子で、エイミルは白い服の女性に頼みこんだ。

 ルーシャスはいよいよエイミルの意図が読めない。エイミルにしてみれば、本物のルーシャスには一刻も早く立ち去ってもらいたいはずだが。

「そうねぇ……」

 頼まれた女性は頬に手を当て考え込んだ。だが、横にいた若い女性の方が冷たく突き放すような返事をする。

「関係のない人間をそうそう置いておくわけにはいかない。それに、この件は誰にも言うなと聞かされなかった? 見送りだなんて――」

「まあまあ、お友達ならきちんとお別れしたいものでしょう。それに、帰れない子を追いだすなんて出来ないわ、ね」

 宥められて、若い女性は眉間のしわをいっそう深くしたが、軽くため息をついて黙った。

「少年よ、遠いって、実家はどこにあるんだ?」

 青年がふとルーシャスを覗きこむ。

「え、えと……」

 エイミルをちらりと窺ったが、軽く顎でしゃくるだけで、今度は何も言ってくれない。流石にこの質問には自分で答えないと不自然ということかと、ルーシャスは推し測った。そして考える。

 どこがいいだろう。ドーヴァーから数時間では着かないところ――そうだ。

「あ、アイルランドのほう、なんですけど……」

 ロンドンを基点にドーヴァーとは真反対の方向なうえ、海を挟めば絶対だ。極端かも知れないが、家はないにしても生まれ故郷ではあるのだがら、あながち嘘ではない。

 しかし、それに対する反応は全く予想外のものだった。

「アイルランド!?」

 青年が途端に深刻な表情で訊き返し、女性たちも顔を見合わせた。それまでずっと無反応だった子どもまで、ルーシャスを見上げてきた。

 何かまずいことを言っただろうか。

 ルーシャスはたまらなく不安に駆られた。だが、指示を仰ぐべきエイミルも、ルーシャス同様、皆の反応に怪訝そうに眉をひそめている。

「アイルランドのどこだ?」

 低い声で問い詰める青年。

 何がそんなに気になるのか。もしや出身地を言ったことで自分が“ルーシャス”だと感づかれたのだろうか。

「その……ダブリン、ですが」

 念のために嘘を答える。本当はダブリンなど訪れたこともなかったが、アイルランド島の中では一番大きい都市なので無難だろうと、ルーシャスは踏んだ。

 その判断が正しかったのかどうか、青年は少し表情を緩める。

「そうか、そこならまだ――いやしかし確かに無茶だな。お前さん、本気で帰るつもりだったのか? 学校からも一応止められただろう?」

「え? あの……」

 何の話だろう。学校が生徒の帰省を止めるなんてことがあっただろうか。アイルランド方面で何か問題が起こっているなどと、ルーシャスは聞いたこともない。

 エイミルも不可解そうな顔のまま、青年達には気付かれないように小さく首を横に振ってくる。

「なんだかこちらも込み入った話になりそうねぇ」

 白い服の女性が心配そうな顔で言った。

「どうかしら、やっぱり彼も一緒に泊めることにして、それぞれ落ち着いてゆっくり話し合った方が良いと思うのだけど。いいわよね? キアナ」

「……仕方がないでしょう」

 若い女性も今度は頷いた。

「だそうだ、少年。引きとめてくれた親友に感謝するんだな」

 青年が気さくに笑う。

 何やらとんとん拍子に話が着いてしまった。だが先刻から謎が増える一方で、ルーシャスはすっかり混乱していた。泊まりにしてまで一体何をそんなに話さなければならないのだろうか。考えるほど不安に襲われる。

 エイミルは肝が据わったもので、さっきまでと打って変わってもう平然として、大人たちに感謝の言葉を述べる。

「本当に有難うございます。ご迷惑をおかけします――ほら、君も」

「え、ああ、すみません、ありがとうございます……」

 急かされて、ルーシャスはやっとそれだけ言った。

 白い服の女性が「いいことよ」と目を細める。

「それにしても、わざわざ見送りのためだけに来てくれるお友達がいるなんて、あなたは幸せものね、ルーシャス」

「はい」

 エイミルは照れ臭そうに微笑んだが、その頬が若干ひきつっているようにルーシャスには見えた。

「そうだわ、あなた、お名前はなんというの?」

 白い服の女性がこちらを向いた。

「あ、はい、ルーっ――」

 じゃない。

 つい勢いで本名を言うところだったのを、ルーシャスは慌てて空咳をしてごまかした。

「まあまあ、大丈夫? 風邪かしら」

「いえすみません、少しむせて……。えっと、ルースです。ブライアン、ルース……」

 口走ってから、ルーシャスは自らの発想力の乏しさを嘆いた。何だってわざわざ姓名をひっくり返したような偽名にしなければならないのだ。

 横でエイミルが顔をしかめているのが分かったが、もう仕方がなかった。

「そう。どうぞよろしく、ブライアン。私のことはハディアと呼んで頂戴」

 白い服の女性――ハディアは、別段不審に思った様子もなく名乗り返した。

「それから、ルーシャスにもこの二人をちゃんと紹介していなかったわね。彼女はキアナ・セラー、彼のほうはヴィンフリート・リヒター。二人とも私よりずっと頼りになるわ。そして二人はもちろんわかっていると思うけど、こちらがルーシャス・ブライアね」

「よろしくお願いします」

 挨拶するエイミルに、若い女性――キアナは目礼し、ヴィンフリート青年は「よろしく」と感じよく微笑んだ。

「……お嬢さん、あなたのお名前も、聞いていいかしら?」

 ハディアが、沈黙を守っていた子どもに向かって、穏やかに優しげに尋ねる。

「…………」

 だが子どもは黙ったまま、面白くなさそうにハディアを一瞥すると視線を逸らした。

 相当に機嫌を損ねているようだ。その理由を作ったのが自分だということを分かっているルーシャスは、実に気まずい思いでその様子を見ていた。

 それにしても、とルーシャスは訝しむ。子どもは捕まってからここに至るまで、一向に弁明する気配がないのだ。本当のことをいえば少なくとも泥棒扱いはされずに済むだろうに、ルーシャスのことを何も騒がない。後でしっぺ返しが来るような気がして、かえって空恐ろしかった。

「返事ぐらいしなさい」

 キアナが威圧的に言ったが、子どもはものの見事にそれを無視する。

「まあいいわ、キアナ。その子も疲れているのでしょう。部屋に連れて行ってあげてくれるかしら」

「はい。――ほら、来なさい」

 キアナが子どもの背を押した。子どもはキアナをうるさそうにしながらも大人しく従い、奥の扉へと向かった。ルーシャスのトランクもしっかり持ったまま。

 扉が閉まる寸前、子どもはふっと肩越しに振り返る。

 目があった。

 ルーシャスは思わず身をすくませる。だがそれも一瞬のこと、すぐに扉が閉められ視線は遮られた。

「まったく、困った嬢ちゃんだな」

 ヴィンフリートが呟きながら、傍らのトランクを軽く叩く。

「ハディア、この荷物置くのは鍵のかかる部屋が望ましいんですが、保管庫かなんか借りられますか?」

「ええ、大丈夫だと思うわ。職員に聞いてみましょう」

 ハディアは頷き、「さて」とルーシャスたちに向きなおる。

「あなた達の部屋もすぐに用意させるわね。二人部屋で構わない? 実は部屋はあんまり多くないの」

「ええ、構いません。無理を言ったのはこちらですから、どうぞお気遣いなく」

 エイミルが愛想よく答えた。

「では、そちらに座って少し待っていて頂戴。用意が出来たら案内するわ」

 にこりと笑ってそういうと、ハディアはヴィンフリートを連れて奥へと消える。

 ぱたんと静かに扉が閉まる音の後には、ルーシャスとエイミルの二人だけがそこに取り残された。

「…………」

「…………」

 急に静かになった空間で、ルーシャスは扉を眺めて呆けていた。

「一つ聞きたいんだけどさ――」

 エイミルがぽつりと口を開く。

 振り向くと、愛想笑いをとっくに消したエイミルが、横目でこちらを睨んでいた。

「何故ここに君がいるんだろうか、ブライアン?」