§4
少年は淡々と頁をめくって本を眺めていたが、つまらなそうに鼻を鳴らすとそれをぱたりと閉じた。顔を上げて壁の時計を見やり、それから窓の外へと視線を移す。暖房のためにガラスは曇っていたし、それでなくとも外は既に暗くなっていたが、少年は眉間に深い皺を刻んで暗闇の奥をじっと睨む。
「本当に遅いわねぇ、あの人たち。大丈夫かしら」
のんびりとした声に、少年はさっと表情を消して振り向いた。
「ハディアさん」
奥の扉から一人の女性が入ってくるところだった。黒髪に浅い褐色の肌、くっきりとした顔立ちが印象的な女性だ。年齢は三十前後といったところ。簡素な白いワンピース姿で装飾品の一つも身につけてはいなかったが、艶やかに波打つ長い髪が華やかさを感じさせる。
「ああ、どうぞそのまま座っていて頂戴」
長椅子から立ち上がろうとした少年を女性はやんわりと制止し、両手に持った盆を少し掲げて見せる。盆には茶器が一揃い載っていた。
「お茶をもらって来たの。あなたも一緒にいかが? ルーシャス」
「あ、はい。いただきます」
少年――エイミル・バートソンは、努めて笑顔で頷いた。
***
“ルーシャス・ブライア”という少年に成りすますことは、エイミルにとって思ったほどには難しくなかった。
ルーシャスに渡された覚え書きの通りに待ち合わせ場所に行ってみると、何の変哲もない小さな建物があり、エイミルがその玄関前に立つなり待ち構えていたように女性が飛び出してきた。呼び鈴も鳴らさないうちに扉が開いたのに加え、出てきたその女性がこちらの顔を見てきょとんとしていたので、エイミルは内心で相当焦った。それでも平静を装って「ルーシャス・ブライアですが」と言いかけると、女性は破顔してあっさりと迎え入れてくれた。特に身分確認も求められなかった。
ハディアと名乗ったその女性は、自分が“ルーシャス・ブライア”を迎えに来た一行の一人だということ、他の連れは外出中で、彼らが戻るまで待たなければならないということを説明して、そうそうに奥の部屋へと消えた。それならばと、エイミルは適当に持ってきた本などを読んで暇をつぶすことにした。
――が、いつまで経っても、誰も戻ってこないのだ。
日のあるうちに出発できるものと思っていたエイミルは、さすがに不安を募らせていた。
「ごめんなさいね、ルーシャス。あなたをこんなに待たせることになってしまって」
ハディアが湯気の立ち上るカップを差し出しながらそんなことを言った。
「いえ、そんな……ありがとうございます」
集中できなかったせいで内容もろくに覚えていない本を脇に置いて、エイミルはカップを受け取った。
「あの人たちときたら、すぐに戻ると言っていたのに。困ったものだわ」
言いながら、ハディアは少しも困った風もなく静かに湯気を吹いている。
「何か、あったんでしょうか」
エイミルはハディアの表情を窺いながら尋ねた。
「うーん、彼らのことなら、そう心配することもないと思うの。それより、今日の最終便に乗れるかどうか危ういところね」
ハディアは少し首をかしげる。
「そう、ですね」
再びちらりと壁時計を窺い、エイミルは沈んだ声で答えた。港まで歩く時間を考慮しても、そろそろ発たないと船には間に合わなくなるだろう。しかし、ハディアはあっけらかんとして「まあ、大した問題ではないのだけどね」と微笑む。
「今日がだめなら一晩泊まって、明日の朝出発すればいい話よ。アルマディナまでは長いんですもの、このくらいの誤差は計算に入れて旅程を組んでいるわ。気長に待ってやって頂戴な」
「はい――え、泊まるって、ここにですか?」
従順に頷きかけて、エイミルは眉をひそめた。
今いるこの建物は、表に看板も見当たらず何の施設かは見当もつかなかったが、少なくとも宿屋には見えない。エイミルが通されたのも玄関を入ってすぐの待合室のような部屋で、長椅子が並べられているだけという殺風景ぶりである。
待ち合わせに使うにしては何かの店にも見えないし、かといって迎えに来た人間のうちの誰かの邸宅というわけでもなさそうだが――。
「ええ、そうよ」
ハディアは至極当然のように頷いた。そしてそれ以上説明する気配もなく、優雅な仕草で紅茶を一口すする。
「…………」
疑問が解決されたわけでは全くなかったが、エイミルは続けて尋ねるのを控えた。ぼろを出さないにためには不用意に質問するのはよくないだろう。必要があれば向こうから教えてくれるはずだ。
と、エイミルがカップを持ち上げかけたところで、ハディアがはたと顔を上げた。
「そうだわ。ねえ、ルーシャス、あなたって確かロンドンから来たのだったわね?」
「はい。何か?」
出身地のつもりで聞いたのかもしれないが、エイミルは言葉そのままの意味として肯定した。ルーシャスの生まれが何処であれ、ここ数年を過ごした寄宿学校があったのはロンドンなのだから、少なくとも間違いではあるまい。
「わたくしは仕事で結構色々なところに行くのだけれど、大陸を出るのは初めてでね、ロンドンもまだ行ったことがないの。昔からの街並みが綺麗に残っていて、素敵なところなのだそうね。今回はせっかくの機会なのに行けなくて、少し残念だわ」
「はあ」
このおっとりとした感じの女性が各地を飛びまわるような仕事をしているというのは、意外な気がした。
まさかシャローマ学院への編入生を迎えに行く専門の派遣員というわけでもあるまいし、そもそも編入生を取る頻度がどの程度のものなのか分からない。学院が寄越した人間なのだから学院に勤めているのだろうが、先刻の簡潔な自己紹介の時もはっきりと身分を聞かされたわけではなかった。だが今更尋ねるのも気が引けたので、エイミルは推測を巡らせるに留めた。代わりに、
「貴重な文化財は多いですが、古臭いばかりであんまり面白いところではありませんよ」
などと冗談めかして言葉を返す。
「あらあら、自分の故郷をそんな風に言うものじゃないわ。この次にはいつ戻ってこられるか分からないというのに、恋しくなったって知らないから」
ハディアの方も意地悪ぶった口調で、そのくせ優しげに笑う。
エイミルは「そうですね」と愛想笑いで応えながら、自分に限ってそんなことは無いだろうけど、と冷めた気持でいた。
生まれも育ちもロンドンというエイミルだったが、幼いころは屋敷の中ばかり、寄宿学校に上がってからはほとんど出歩くこともなかったので、街そのものに愛着を持つ理由はなかった。ましてそりの合わない家族がいるところなど、エイミルは出ていきたくて仕方がなかったのだから。
自身の家族の面々を思い出して不愉快になりながらも、しおらしい孤児を演じることは忘れない。
「ですが、僕には肉親もいませんし、もう帰るべき場所はありませんので」
後半は事実だった。
「そうだったわね、あなたは……」
少しばかり表情を曇らせるハディア。おおかた予想通りの反応だ。それに対し、エイミルは気にしないで下さいと言わんばかりに微笑んでみせる。
「だから、アルマディナに行けるのは心から楽しみなんです」
「まあ、そう? それなら良かったこと」
ハディアはぱあっと明るい笑顔に戻る。
「そうね、わたくしも久々に故郷に帰れることになって、とても楽しみなのだけれど」
エイミルの心中を知る由もなく、ハディアは遠慮がちに、それでもなお嬉しそうに言った。
「ハディアさんはアルマディナのご出身でしたか」
「ええ」
肌の色からするともう少し南方の出のような印象だったが、世界中から人が集まるアルマディナなら、人種や民族の区別などあってないようなものだろう。
「本当に久しぶりだわ。どんな街に行ってもそれぞれに素敵だけれど、やっぱりわたくしにはアルマディナの空気が一番合ってるって、最近つくづく思うの。もう齢ねぇ」
「そんな……」
十分に若く美しく見える女性にそう言われて、返す言葉に困ったエイミルは苦笑いするしかなかった。
「そうそう、アルマディナの街は遠くから見ると真っ白に見えて素敵なのよ。知っているかしら?」
「写真で見たことがあります。建物のほとんどが、近辺で採れる白い石材を使っているからとか。他の土地では採れない、貴重な石なんですよね」
歴史だか地理だかの教科書に載っていたことを思い出しながら、エイミルは答えた。
「そう、だから白一色っていうのは特別なの。それでついた名前がアル・マディーナ・アル・バイダ――“白い街”という意味ね。アルマディナというのは通称なのだけど、これだけだとただの“街”で、同じ名で呼ばれている小さな街は周囲に結構あるの」
それも、エイミルは何かで読んで知っていた。ただ、アラビア語の正式名を母語話者――恐らくだが――の口から聞くのは初めてだ。やはり慣れない発音だと思った。
「昔は、遠くから来た人で言葉がよく分からなかったりすると、間違えて他の街を訪ねてしまうことも多かったみたい。でも今は一般的にアルマディナといえば“白い街”のことだって暗黙の了解が出来あがってるから、それで間違えることはあまりないと思うわ。何より外観が特徴的だし」
「確かにそうですね」
「あ、でもね」
ハディアが思い出したように切り出す。
「近くまで来てるのになかなか街にたどり着けない人たちも、時々いるのよね」
「それは、どういうことです?」
本気で意味が分からないので、素直にそう訊き返した。
「ええ。アルマディナに向かうには一応鉄道があるのだけど、その最寄駅――と言ってもいいのかしらね、アルマディナからは結構離れているのよ。知っての通り城壁の周囲は砂漠だから、線路や街道なんかはすぐに砂に埋まってしまって設置できないでしょう? 結局、砂漠の道なき道を歩いて越えなければならないの」
「それは、厳しいですね……」
熱砂の砂漠を歩く光景を想像して、エイミルは閉口した。
「だから、ほとんどの場合集団になって案内人付きで砂漠に出るの。でも個人で行こうとして迷う人もいて」
「なるほど」
無謀なことをする人間がいるものだ――そんなことを思ってから、エイミルは急に可笑しくなった。自分も他人のことを言えた筋ではない。いやむしろ、自分の方がよっぽど馬鹿げた、無謀過ぎることをやろうとしているのに。
自嘲の笑みをこらえて渋面をつくっていると、ハディアが覗きこんできた。
「大丈夫よ。そういう遭難者がいないか毎日巡回させているから、万一にも亡くなる人なんていないし。あなたのこともわたくしたちが責任をもって送り届けるもの、どうぞ安心して、ルーシャス」
「あ、いえ……よろしくお願いします」
余計な気遣いをさせてしまったかと、エイミルは造り笑顔で頭を下げた。
こちらの心中を知る由もないハディアは、にこやかに続ける。
「アルマディナは本当に素晴らしいところよ。周りは砂漠だけれど、中に入ってしまえば綺麗で機能的でとても住みやすい街。なかでもシャローマ学院の学舎は一番大きくて、あらゆる設備が整っているの。それこそ学院だけで一つの街に匹敵するくらいにね。だから基本的に学生さんは寮住まいで、学院の敷地内のみで生活してもらうのだけど……あなたは寄宿学校にいたのだし、集団生活は大丈夫そうね」
「はい、それは問題ないと思いますが――」
自ら喧嘩を引き起こすようなことはまずしない。それよりも、
「意思の疎通は少し難しいかもしれません。話せる言語はそれほど多くありませんし」
こちらの方が心配と言えば心配だった。エイミルが理解できるのは、英語のほかには授業で習ったヨーロッパ地方の主要言語がせいぜいである。これはルーシャス本人の場合でもそう変わらないはずだ。むしろ成績順位を見た限りでは少し劣っていた。
アルマディナの地理からしてもヨーロッパ圏の人間が多数を占めることはないだろうから、現在の語学力で不自由しないとは考えられない。
しかし、ハディアは笑顔のまま横に首を振る。
「言葉はゆっくり覚えていけばいいことよ。あなたなら、学院でも上手くやっていくことができるわ」
そして何を根拠にかそう言いきった。
「だといいのですが」
エイミルは苦笑して答えた。
「それとね……」
「はい?」
ふと真剣な様子になったハディアに、エイミルは少しばかり身構えた。
「あなたは帰る場所がないと言ったけれど、だったらこれからはアルマディナが、シャローマ学院があなたの故郷だと思ってくれると嬉しいわ。わたくし達はあなたを心から歓迎します、ルーシャス」
「……はい。有難うございます」
神妙に頷きながら、エイミルは実に複雑な気分だった。
こんな言葉を受けるには自分は全く相応しくない。本来ならばここにいるべき少年の、人畜無害そうな顔が脳裏に浮かぶ。
良心の呵責がないはずがない。とはいえ、金をやるから留学を譲れなどという無理な申し出をあっさりと呑むルーシャスも、どうかしているとしか思えない。気が進まないとは言っていたが、それが本心なら何がそんなに嫌なのか理解し難かった。
エイミルとてこんなことを決行したのは、何も家を出たかったからというだけでも興味本位からでもない。
シャローマ学院に入ることは、亡き祖父との約束なのだ。
親兄弟とはどうしても性格が合わなかったが、祖父だけはエイミルの理解者で唯一の拠り所だった。その祖父が若い頃に志しついに叶わなかったのが、シャローマ学院で研究者になることだったという。祖父を敬愛していたエイミルは、自分がその夢を引き継ぐのだと勉学に励んだ。祖父もそれを喜んでくれていた。だが、昨年病気で亡くなってしまった。
実のところルーシャスに差し出した金は、祖父が亡くなる少し前に密かにエイミルに渡してくれた遺産だ。遺産などと言うと受け取りにくいかと考えて学費と言い繕いはしたが、それも最初は本当に進学するための資金にする予定だった。
しかしシャローマ学院に招かれたのが、ずっと首席を維持していた自分ではなく平凡で目立たない同級生だと知ったとき、エイミルは驚きとともに疑念と焦りを覚えた。このままずっと勉強を続けても道は開けないのではないか、と。替え玉として学院に入れないだろうかと突飛な思い付きを実行に移したのもそれが理由だ。馬鹿なことをしていると分かってはいたが、何が何でもシャローマ学院に行ってやるという思いでいっぱいだった。
そう勢い込んだ割にあっさりと望みどおりに事は運び、今やこうして歓迎の言葉をうけている。エイミルにしてみれば喜ぶべきことなのだが、やはり身を引いたルーシャスの分が悪すぎることが分かっているので、気分は晴れない。
おそらくこのわだかまりは一生引きずることになるだろう。だが、それも学院に入って送る人生の対価としてなら安いものだ。それにエイミルが色々憂慮したところでただの独りよがり、もはやルーシャスにとっては何の慰めにもならない。
悟られぬように気を取り直して、エイミルは再び紅茶のカップをとった。湯気はすっかり落ち着いていたので、二口三口続けて喉に流し込む。
「もう一杯いかがかしら?」
ハディアがポットに手を伸ばして尋ねてきた。しかしエイミルが断るよりもはやく、「あら」と顔を上げる。
「戻って来たみたい」
「え?」
ハディアはぱっと立ち上がって玄関のほうへと出向き、それを見送りながらエイミルは慌ててカップを置いた。
すると一拍遅れて、玄関の扉が開く。
「どうも、大変お待たせしました」
「遅れて申し訳ありません、ハディア」
そう口々に言いながら現れたのは若い男女。どちらも背が高いが、穏和そうな青年に硬い表情の女性と、印象は真逆だ。どうやら彼らが待ち人らしい。
エイミルは素早く立ち上がって姿勢を正した。青年と女性がこちらに目を止め軽く会釈をしたので、出来るだけ丁寧に会釈を返す。
「二人ともご苦労様です。あの子も一緒ね?」
ハディアの問いかけに、二人が頷く。そして女性に引きずられるようにして、十歳くらいの子どもがしぶしぶと入って来た。それが大きな黒帽子に黒マントという仮装めいた奇妙な格好だったので、エイミルは少しばかり目をみはった。
ハディアは子どものそばまで行って腰を落とし、にこりと笑いかける。
「良かった。来てくれて嬉しいわ、お嬢さん」
「来たくて来たんじゃありません。誘拐ですこれは」
子どもは口元をひん曲げてそっぽを向いた。女性がそれを睨み付け、その横で青年が苦笑しながら肩をすくめる。
顔見知りなのか態度の悪い子どもだが、どういう関係でここにいるのだろうかと、エイミルは考えを巡らせた。まさかこの子どもも学院までの同行者なのだろうか。
ハディアは気を悪くした様子もなく困ったように微笑んで立ち上がり、そのままふと子どもの背後を見て、目を丸くした。
「あら……ねえキアナ、こちらの男の子はどうしたの?」
まだ誰かいた――今度は明らかにハディアも面識のない人物らしい。
「この子と一緒にいたので、少し話をきこうかと」
ハディアの質問に、女性が簡潔に答えた。
「まあ、そうなの。あなた、そこでは寒いでしょう。どうぞお入りなさいな」
玄関の外に向かって、ハディアは優しく呼びかける。
「……失礼、します」
おずおずと陰から姿を見せた人物を認めて、エイミルは本当に心臓が止まるかと思った。