§3

 日が暮れて久しい時刻。寂れた雰囲気の漂う暗い路地裏を、ルーシャスはとぼとぼ歩いていた。

「はあ……」

 溜め息ももう幾度目か知れない。つまるところ、ルーシャスは途方に暮れていた。

 エイミルと別れた直後はもらった金を数えてみたりしていたのだが、小一時間ほどでそれも終えるとすることがなくなった。そのまま駅に戻るのもせっかくの遠出が勿体無いと思い、昼食ついでにぶらついてみようかと街中に繰り出した――それまではよかったものの、何分勝手知らぬ土地である。当てもなく彷徨って時間を潰すうち日が傾いてしまったのだった。

 そしてさしあたっての問題は、今夜の寝床をどうするかということである。

 今から別の街に行くわけにもいかないので、普通に考えれば宿屋を探すところだ。だが、ルーシャスは気が進まずにいた。まず一人で宿に泊まったことなどないので要領が分からないし、なにより不審に思われないだろうかと心配でならない。もしも見咎められて荷物を調べられでもしたら、トランクいっぱいの大金につて問い詰められたりしたら。そう考えて、ルーシャスは必要以上に物怖じしていた。

 さてどうしたものか。

 いっそのことその辺で野宿でもした方がずっと気が楽だ。むろん、こんな冬の夜にまともに野宿などしようものなら翌朝には凍死体になってしまうので、どこか屋根があって最低限風をしのげるような廃屋でもないものだろうか。一晩休むだけなら人に見つかりはしないだろう。確か昼間通りすがったときにやたらと古いアパート群を見かけたので、そこなら一つくらい無人の棟があるかもしれない。

 そんな無謀なことを考えながら、ルーシャスは町はずれへと足を延ばすことにした。そして、角にさしかかった時だ。

「ひゃっ!? 危な――」

 小さな悲鳴が聞こえ、直後、ルーシャスは右脇に激しい衝撃を喰らった。

「った……?」

 気が付くと、ルーシャスは建物の外壁にもたれてへたりこんでいた。

「だ、だいじょぶですか!? ごめんなさい! 大丈夫ですか!」

 ひどく慌てた声が降ってきて、ルーシャスは呆然としたまま顔を上げる。

「あれ、貴方は……」

 そこに屈みこんでいた人物は驚いたように身を引いた。逆光で顔はよく見えなかったが、ルーシャスもその人物に心当たりがあった。鍔広帽に、すとんとしたマントのシルエット――列車で乗り合わせた、あの黒ずくめの子どもだ。

「ああ、どうも……」

 ぼんやりと会釈すると、子どもの方もぶんぶんと頷く。

「あ、はい、先ほどはどうも。あの、それより、すみませんでした。私、前見てなくて。怪我なさったんじゃありませんか? 立てますか?」

 申し訳なさそうに言う子どもとその後ろに倒れた巨大なトランクを見て、ルーシャスは何となく状況を把握した。どうやら子どもが押していたトランクと衝突してしまったらしい。しかし子どもは一体どんな速度であの重そうなトランクを押していたのか、ルーシャスは見事に突き飛ばされたのだった。

 恐る恐る手足が動くのを確かめ、ルーシャスはゆっくりと立ち上がった。

「……大丈夫、うん、たぶん」

 右脇も左肩もまだ痛むが、軽い打撲程度のものだろう。怪我というほどではない。

「ああ、良かったです。でも本当にごめんなさい」

 子どもは少し安心したようだったが、さらに謝罪を述べて帽子を取った。昼間会ったときと違い、髪を二つに結ってリボンを長く垂らしている。その髪型を見て、子どもが少女である可能性にルーシャスは初めて思い至った。服装は紳士風だし声もそう高くないので端から少年だとばかり思っていたのだが――どちらにしろ、こんな子どもがこんな時間に一体何をしていたのだろう。

 そんなルーシャスの疑念を知る由もなく、子どもはただただ頭を下げる。

「本当に、どうお詫びしたらいいか」

「あ、いや、そんなに気にしないで、何ともないから……君の方こそ、大丈夫?」

「はいっ、私は全く」

 子どもは大げさに頷き、帽子を被りなおしながら周囲を見渡す。

「ああ、貴方の荷物を散らかしてしまいましたね、すみません」

 言われて気づけば、ルーシャスの二つのトランクはばらばらの方向に転がっていた。ぶつかった際に思わず手を放してしまったらしい。素早く拾いに走ってくれる子どもに、慌てて礼を言う。

「ごめん、ありがとう」

「いえいえ、悪いのはこちらですから」

 子どもは二つめのトランクを抱えながら笑顔で振り向き――思いっきり顔をしかめた。

 どうかした、と尋ねる間もなかった。

「動くな」

 背後から鋭い声が響き、その言葉に反して、ルーシャスは思わず振り返る。

 一つ向こうの街灯の下、路地の真ん中に立つ人影があった。

「やっと追い付いた。もう逃げようとか考えるなよ」

 そんな科白を大真面目な口調で言いながらゆっくりと近づいてきたのは、すらりとした長身に黒っぽいロングコートを羽織った青年だった。目鼻立ちの整った顔は、ともすると十代にも見える。

「たいがいしつこいですね、貴方がたも」

 うんざりというふうに子どもが言うので、青年の言葉が子どもに向けられたものだったのだとルーシャスはようやく理解した。

 青年は腰に手を当て、眉根に皺を寄せる。

「そりゃしつこくもなるさ。素直に付いてくりゃあいいのに、逃げるから余計に怪しいってもんだろうが」

 子どもも負けず劣らずしかめっ面を返す。

「貴方がたに従う義理はありませんから」 

「お前さんになくても俺らにはあるんだよ」

「そんなの私の知ったことじゃ――」

 子どもはふいに言葉を切り、勢いよく後ろを振り向きながらその場を飛び退いた。二人のやり取りの間で身を縮めていたルーシャスだったが、子どもの行動に何事かと目を見張る。

 するといつの間にそこにいたのか、子どものすぐ背後に女性が一人立っていた。青年よりは幾分年上、二十代半ばほどだろうか。女性にしては背が高い。長い髪を一つにきつく縛り、かっちりとした上着やブーツなども相まって、堅い印象を与える。

「惜しい、セラーさん」

 青年が女性に向って、少しおどけてみせる。

「ふざけるな、リヒター」

 女性は青年を一瞥し、抑揚のない声でたしなめた。どうやらこの二人は仲間らしい。子どもが言った「貴方がた」とは、この女性も含めてのことだったのだろう。

「あなたも、本当にいい加減大人しくしてくれないと困るのだけど」

 自らの腰ほどかというくらいの小さな子どもを、女性は淡々と見下ろして言った。

「こちらこそ、付け回されて困ってるんですけどね」

 子どもは面倒臭そうに女性を睨め上げた。

 何やら不穏な空気の中、ルーシャスはひとり蚊帳の外で落ち着かない。この男女が子どもを捕まえようとしているらしいのは分かったが、子どもを真剣に追いまわす大人二人も、追われているのにどこか余裕そうな子どもも、あまりに怪しい。

 青年が一つ溜め息をつき、先刻より和らいだ表情で子どもに向きなおる。

「あのなぁ。俺らは別にお前さんを酷く扱うつもりはないし、むしろお前さんのためを思ってだな」

「余計なお世話だと言っているでしょう。貴方がたに心配されることなんて、何にもありません」

 子どもは一言ずつ強調しながら言い切った。青年は肩をすくめて女性を見やり、女性は軽く首を横に振って答える。

 そんな様子を見て、ルーシャスには思い至ることがあった。もしかすると、青年と女性は補導員か何かで、一人でうろついている子どもを保護しようとしている、とは考えられないだろうか。ルーシャスが居た孤児院にも、路上生活をしていた子ども達がたまに保護されてくることがあったが、そんな子ども達の中には放っておいてくれと孤児院を脱走しようとする者もいたのだ。目の前の子どもの態度は、それを思い起こさせるのだった。

 ただ、浮浪児というには、この子どもの身形は綺麗すぎるのだが。

「で、そこの少年」

「!」

 突然、青年がルーシャスの方を振り向いた。

「お前さん、その子と知り合いか?」

「え、あの、知り合い、というか……」

 どう答えればいいものだろう。全く見知らぬわけではないが、たったの二度顔を合わせただけでは顔見知りというには程遠い。それに、この子どもとの関係如何によって自分はどうにかされるというのだろうか。

 ルーシャスが口ごもっていると、横から子どもが身を乗り出す。

「彼はそこで鉢合わせただけです、関係ありませんよ」

 青年は子どもをちらりと見ただけで、ルーシャスに視線を戻す。

「そうかい。で、学生がこんな時間に何うろついてんだ? つーか、確かこの辺りに制服のある金持ち学校なんかないだろ。どっから来た?」

 青年は物腰こそ穏やかだが、とげとげしい口調でそう尋ねてきた。

 そうか、とルーシャスはようやく気付く。青年達が補導員だとしたら、自分も十分その補導対象たりえるのだ。

「いや、その……」

 とっさに上手い言葉が思いつかず、ルーシャスは青年から目をそらした。そうしてから、ああしまったと後悔する。こんなにあからさまに動揺を見せては余計に不審を誘うに違いない。次には「学生証を見せろ」と言われるのではと思うと、ルーシャスは背中に冷や汗が流れるのを感じた。

「ちょっと!」

 再び子どもが声を張り上げ、ルーシャスはびくりと顔を上げる。

「いくら貴方がたでもそんな権限はないでしょう。少年、そんな人の言うこと聞く必要ありませんよ」

「え……」

 子どもがあまりに自信たっぷりに言うので、ルーシャスは妙に緊張が解けた気がした。

「だいだい、この人たち警察でもお役人でも何でもないんですから。職務質問じゃあるまいし、わざわざ答えてやることなんて――」

「あなたは黙っていなさい」

 女性が有無を言わせぬ口調で子どもの言葉を遮り、その肩をつかむ。

「触らないで下さい!」

 子どもは女性の手を振り払おうとするが、両手が二つのトランクでふさがっていたせいか上手くいかず、逆に女性に首根っこを掴まれる。その途端、子どもは心底嫌そうに顔を歪ませた。

「はなっ――!」

 呻くような声を上げて女性を突き飛ばそうとした子どもは、その拍子にトランクを一つ取り落とした。小さいほうのトランクだった。

 それは地に落ちた瞬間、ばくりと口を開く。

「あ」

 ルーシャスは意図せず声を漏らしたが、どうしようもなかった。

 次の瞬間には、トランクから幾つもの札束がこぼれ、石畳の上に散乱する。

「なっ!?」

「これは……」

 青年と女性は、目を見開いて固まった。

「…………」

 子どもはと言えば、先刻までの勢いはどこへやら、女性に腕を掴ませたままで呆然としている。

 それから数秒の間は誰も動かず――

 最初に口を開いたのは、青年だった。

「あーっと……とりあえず、そいつ連行しましょうか、セラーさん?」

 女性は、相も変わらず淡々と頷く。

「何にしても、この場で済む問題じゃないだろう。この子は私がこのままを引っ張っていくから、お前はそれを拾って持って来てくれ」

「ああ、はい。しかしまあこんな大金、一体どっから……」

「え、えっ!?」

 そんなやり取りをする青年と女性を、子どもは納得のいかないという顔で見上げ、それから途方に暮れたようにルーシャスに視線を寄越す。

 青年達は、あのトランクがルーシャスの物だとは知らず、子どもが何処かから盗んだものと思ったらしい。子どものためには、その誤解を解かねばならない。それに、その金は自分の物だと主張して返してもらわなければ、この先困るのはルーシャス自身だ。

 しかしルーシャスは何も言いだせなかった。

 本当のことを言っても、今度は自分が盗みを疑われるに決まっている。疑いを晴らすには事情を洗いざらい白状するほかないだろう。そんなことにでもなれば、自分はともかく、エイミルの将来までも潰しかねない。一応契約のようなものをした手前、そういう事態は避けたいところだ。この際だから金は失っても構わない、このままやり過ごせれば――だが、無関係な子どもに濡れ衣を着せるわけにはいかないし、第一、子どもが黙っているはずがないのだ。

 どうあがいても事態は悪い方にしか転ばない。そういう結論に達し、ルーシャスはそれ以上の思考を諦めた。

「あ、そうだ少年。お前さんもここじゃ何だから、ちょっと一緒に来いな」

 札束を拾う青年が思い出したように言うのにも、ルーシャスは半ば項垂れながら無言で頷いた。

 すると青年は顔をあげ、少し呆れたように微笑む。

「安心しな、いきなり警察に突き出しゃしないさ」

「……?」

 補導した不良少年を、警察に引き渡さずに何処へ連れて行くというのだろうか。そんなルーシャスの心中の問いに答えるように、女性が続ける。 

「これから私たちの“事務所”に行く。あなたには少し話を聞くだけだから」

「そうそう。素直に答えてくれりゃ、お前さんはまあすぐに帰してやるよ」

「はあ……」

 濁すように返事をしながら、ルーシャスはちらりと子どものほうを窺う。子どもはじっと黙って話を聞いていたが、顔には不満げな表情が浮かんでいた。

 きっと帰してはもらえないだろうと想像されて、ルーシャスは密かに溜め息をついた。