§2
「僕は、君に成りすまして留学したいと思ってる」
平然とそう言う少年の横顔を、ルーシャスはちらりと見やって、それから何処ともなしに目を泳がせる。
駅に程近い広場、ルーシャスとエイミルはベンチに腰掛けていた。広場と言っても、周りに建物がなく単に開けているだけのような場所である。申し訳程度にベンチや街路樹が並んでいて、他に人影はない。駅の真前では人目につくからと、エイミルが連れてきたのだ。
互いにベンチの両端に座ったため、二人の間には微妙な距離が空いている。そして顔を合わせるでもなく、エイミルから話し始めたのだった。
「君には黙ったまま出し抜こうかとも考えたんだけど、やっぱりちゃんと話をつけておいた方が、後腐れがないからね――はいこれ」
言いながら、エイミルは傍らに置いた二つのトランクのうち小さい方を取って寄越した。ベンチの真ん中に置かれたそれに、ルーシャスは少なからぬ警戒心を抱く。
「……何?」
「金。僕に可能な限り用意したんだ。留学を僕に譲ってくれたら、君にそれをやるよ」
エイミルは至って真面目な顔だ。
しかしあまりに突飛な話に、ルーシャスの思考は追いつけずにいた。
「……えっと、あの、どういう……こと?」
のろのろと尋ねると、エイミルはいらついたようにルーシャスの方に振り向く。
「だから今言ったとおりさ。その金と引き替えに――」
「いや、そうじゃなくて」
「何だよ」
「その……なんで、僕が留学すること知ってるの?」
留学の話は絶対誰にも口外しないようにと、ルーシャスは言いつけられていた。留学先との連絡など様々な手続きは、学校内でもごく一部の人間で秘密裏に進められていたらしく、普通の職員は知りもしない。まして生徒が知るはずは無いのだ。
エイミルは、ああそれかと呟き、前に向きなおる。
「最初はたまたま見かけたんだよ、君が教頭先生と話してるところをね。それもこっそりと裏庭なんかで。君は別に問題児でもないし、かといって教師に気に入られるタイプでもないだろ。だから何かあったのかと思って、それから君に注意してたんだ」
「はあ」
感心半分、呆れ半分でルーシャスは小さく溜め息を漏らした。自分だったらいつ誰が何をしていようが気にも留めないだろう。流石、エイミルは監督生である。いつも目を光らせて他の生徒たちを指導するのは、監督生としては正しいあり方だ。それ故、監督生の肩書は名誉であるとともに一般生徒からは疎まれがちであるのだが――。
教頭と話していたのは間違いなく留学に関してのことだ。出発の日程やらこまごまとしたことは教頭から伝えられた。それなりに人目につかないよう気をつけていたはずだが、ひょんなところで見られていたものだ。
「それで、消灯の見回りのときだったか、君の机の上に封筒があるのを見つけて」
「封筒……」
そういえば、教頭から受け取った封筒があった。それは留学先の学校からルーシャス宛に送られてきたもので、証明書やら資料やらが入っていた重要書類だ。机の上に置きっぱなしにしたこともあったかもしれない。
しかし消灯時なら、集団部屋なので他の生徒もいるし、封筒の中身を見ることはできない。中の書類を見ない限り、留学のことなど分かるわけがない。
ルーシャスが不可解に思っているのに気付いたのか、エイミルは付け加える。
「校内であんな封筒は使わないし、君はその……文通とかはしなさそうだから」
少しだけ言いにくそうにするエイミルを見て、ルーシャスは合点がいった。暗に、ルーシャスには外部に手紙をやり取りする相手――家族がいないから、と言いたいのだろう。ルーシャス自身は今更気にしないのだが、周囲からすればやはり気を遣うことのようだ。
ともかく、そういう生徒の元にあるはずのない書簡があったので、やはり妙だと思ったということらしい。
「だから隙を見て、誰もいないときに部屋に立ち入って、その封筒を調べたんだ。まあ、監督生だからってそんな権限はないし、悪いとは思ったんだけど。それで、君の事情を知ったってわけさ」
「はあ……」
そういうわけだったかと頷くと、エイミルが怪訝そうに顔を上げる。
「はあって、怒らないのか? 僕は勝手に君の机を漁ったのに」
「え、ああ、いや」
遠慮があってもわざわざそこまでするなんてよっぽど気になって仕方がなかったのだろう、とルーシャスは勝手に納得していた。監督生の中には、教師の目がないところで権威を振りかざすような横暴な者もたまにいるが、少なくともエイミルに関してそういう噂は聞いたことがない。別に実害があったわけでもあるまいし、手紙を覗かれた程度のことは、ルーシャスにとって腹を立てるほどのことでもないのだった。
それよりも、気になることがある。
「あの、それで何で、留学しようだなんて……」
はっきりいって留学など面倒以外の何物でもないとルーシャス感じていたのだ。それなのにエイミルは、わざわざ大金を積んでまで代わってくれと頼みに来たのである。
「何でと訊かれても、行きたいからとしか言いようがない」
エイミルは困惑したように眉根を寄せた。
「だってシャローマ学院だろ? そんな名門校に入れる機会なんて、そうそうないじゃないか。学院からの君宛の手紙を見たときだって、すぐには信じられなかったくらいだ。まさかこんな辺境の学校から編入生を取るなんて」
「まあ、それは僕も思ったけど……」
やや興奮気味に言うエイミルにたじろぎながら、ルーシャスは素直に同意する。
シャローマ学院、というのが留学先の学校名だった。
遥かメソポタミアの地、かつて最古の文明が繁栄したという砂漠の真ん中に、現在燦然と輝く世界最大の都市アルマディナ――シャローマ学院はその中心部にある学術機関だ。学院は優秀な人材を募っては教育を無償で施したり研究を補助したりしている。よってシャローマ学院に在籍するということは、大いに名誉あることらしい。
そしてそれこそ、ルーシャスが留学に対して消極的になっている原因の最たるものであった。そんな名門校に招かれるほど優秀であった覚えなどルーシャスにはない。今まで通ってきた中等学校はロンドンでも名の通った学校ではあったが、シャローマ学院とでは比較対象にもならないだろう。そこで成績の良い方だといってもたかが知れているというものだ。そんな自分が通用するわけがない。
その点、今目の前にいるエイミルなら断然ふさわしいのではないだろうか。彼は誰もが認める学校一の秀才なのだ。少なくとも自分よりは、上手くやっていけるに違いない。
しかし、だ。
そうやすやすと了承するわけにもいかない。
「あの、エイミル」
ルーシャスはおずおずと呼びかける。
「何さ?」
「家とか学校は、どうするつもりなの?」
するとエイミルは途端に冷めた表情になり、そっぽを向いた。
「君には関係ないだろ」
「いやでも……君が急にいなくなったら、騒ぎになるだろうし」
ルーシャスの替え玉として留学するにしても、誰にもそれを知られるわけにはいかないのだ。この冬休みの間だけなら、家族には学校の寮に残ると言い、学校には家に帰ると言っておけばまだばれないかもしれない。しかし春学期が始まれば、エイミルの不在が発覚するのは時間の問題である。
当然、エイミルもそのあたりを考えていないわけではないだろう。
しばし押し黙ったまま宙を睨んでいたエイミルだったが、不意に口を開く。
「その金さ――」
言葉につられて、ルーシャスはベンチの上のトランクに目をやる。
「僕の銀行預金、全額下ろしたやつなんだ」
「全、額!?」
ルーシャスは驚いて顔を上げた。
「そう。僕の学費なんだけど、大学院に行く分まで貯まってたから、結構な額だよ」
エイミルの横顔は淡々としていて、特に感情の色は見られない。
「家には絶縁状を送っておいたし、口座の残高が空なのに気づけば、本気で金持って家出したと思ってくれるさ。学校で噂が立とうが騒がれようが、どうせ戻ることなんてないんだから知ったことじゃない。問題ないだろ」
そんな問題大有りなことを、何でもない風に言うのだった。
「でも……いくらなんでも家出なんて、家族は心配するんじゃないの?」
ルーシャスが控えめに尋ねると、エイミルはふんと冷笑した。
「家族との仲はそりゃあ酷かったから、心配なんか有り得ないね。僕は長男じゃないからいなくなっても家業には影響しないし。まあ、金を持ち出したことに関しては怒るかもしれないけど」
「そう……」
そんなものだろうか、とルーシャスはそれ以上聞くのを止めて置くことにした。エイミルもそれ以上何か言おうとはしなかった。
家族というものを知らないルーシャスには、エイミルの家族に対する感情を察するのは難しい。だが、家族だからといって必ずしも相性が良いものではないということは想像がつく。
ほんの少しの間、ルーシャスは視線を落として考えた。そしてすぐに意を固める。
「うん、分かった」
顔をあげ、そう短く答えた。
一拍遅れて、エイミルがはたと振り向く。虚を突かれたような表情をしていた。
「…………は? え、それ、は、了承ってこと、でいいのか? 本当に、シャローマ学院行きを僕に譲ってくれるのか?」
明らかにうろたえた様子のエイミルに、ルーシャスは意外なものを見た気がしながら、頷いて答える。
「うん、いいよ。君が行きたいんなら、その方がいいと思う。僕は、本当はあまり……気が乗らないでいたから」
やる気も能力もない人間よりは、向上心あふれる有能な人間を学院側も望むことだろう。どう考えても自分よりエイミルが留学する方が有意義というものだ。
しかしエイミルはまだ納得がいかない様子である。
「ちゃんと解ってるか? 君はもう元の学校に戻るわけにはいかないし、"ルーシャス・ブライア"の名も捨ててもらわなくちゃならない。誰にもこのことを知られないよう、独りで生きていかなきゃならない。解ってるのか?」
詰め寄るように言われ、ルーシャスはたじろぎながらも答える。
「え、うん……でも、それは、君も同じじゃないか」
エイミルはルーシャスの不利益ばかりを挙げたが、エイミル自身も似たような制約を受けることになるのだ。彼の思う通りに事が運べば、"エイミル・バートソン"という人物は失踪者扱いになり、彼はこのさき一生"ルーシャス・ブライア"として振舞わねばならない。それも知人もいない異郷で、本当にたった一人でだ。替え玉などと発覚しようものなら、一体どんな処分を受けるか分かったものではない。エイミルの切望する留学生活は、その危険と常に隣合わせなのである。
それに引き替えルーシャスは、今後は路頭に迷うことになるとはいえエイミルほど神経を使うことはないだろう。それにもともと孤児なのだ、身元の不確かさなど今に始まったことではない。
「君は、それでいいのか?」
エイミルは信じられないとでも言いたげな顔でそう尋ねてきた。
「うん、別に……」
自分からそう要求してきた割に随分と良心的なものだと、ルーシャスは思った。
「……そうか」
エイミルは小さく呟き、頭を振って視線を逸らした。
そんな様子を眺め、ルーシャスは首をかしげたが、何を聞くでもなく黙っていた。
「まあ、いいや。とにかく、頼みを聞いてくれて感謝するよ」
落ち着きを取り戻したらしいエイミルは、そっけなく礼を述べたのだった。
何か含むところでもありそうなその態度に、ルーシャスはどう応えるべきか惑う。一体エイミルは何を考えているのだろう。自分の思い通りになったのだから、もっと喜んでもよさそうなものだが。
「えーっと……あ、学院からの書類、全部渡すよ」
言うに事欠いて不意に思いついたことを口走りながら、ルーシャスは膝の上に抱えた自分のトランクを開ける。しかし――
「あれ……?」
そこに目的のものは無かった。おかしい。留学関係の書類は例の封筒にまとめ、詰め込んだ荷物の一番上に置き、よくよく確認してからトランクの蓋を閉めたはずだ。
「ああ、それなら」
ルーシャスが荷物をひっくり返して探し始めようかと考えたとき、エイミルが口をはさむ。
「これだろ」
振り向くと、エイミルは手元に置いた方のトランクから大判の封筒を取り出し、掲げて見せたのだった。
ルーシャスは目を瞬く。自分の物が自分のトランクに無くて、他人のに入っているとはどういうことだろう。
「何で、それ……」
「ごめん。実はさっき列車の中で、君が寝てる隙に盗んだ」
エイミルは少し気まずそうに言った。
そういえば、とルーシャスは思い出す。列車で目が覚めたとき、覚えもないのにトランクが向かいの座席に置いてあったが、あれはエイミルが物色したあとだったのだ。
「まさかこうすんなりと聞き入れてもらえるなんて考えてなかったからさ。最悪、こんな頼みを持ちかけたって無視されればそれまでだろ。でも僕がこれを持ってさえいれば、君は話を聞かないわけにはいかない。話を聞いてもらえさえすれば、僕はどうにかして説得できるからね」
「……はあ」
ルーシャスは何とも言えず、曖昧な相槌を打った。つまりエイミルは始めから、何が何でも自分の意向を押し通す気だったということだ。それは、彼も家族と絶縁し金を持ち逃げした手前、もう後に引くわけにはいかなかったのだろうが――だとしても思い切ったことをしたものである。
「まあ、取り越し苦労だったわけだけどさ」
エイミルは肩をすくめた。そして封筒の中を覗き、一枚の白い紙切れを引き出す。
「で、僕が"ルーシャス・ブライア"だと認めてもらうには、この『編入許可証』? とやらを、迎えの人間に見せればいいんだよな」
どうやら既に一通りの書類に目を通したらしい。ルーシャスが事細かに説明する必要はなさそうだ。
「うん、そのはず……あ、これ、待ち合わせ場所とか書いてるから」
ルーシャスはコートのポケットから手帳を出してエイミルに差し出す。
「よかったら持って行って。僕はもう使わないし」
するとエイミルは複雑そうな顔をした。
「君は、お人好しと言うかなんというか……まあ、僕は助かるけど」
言いながらもエイミルは手帳を受け取り、ページをぱらぱらとめくる。そして思いついたように顔を上げた。
「そうだ、この際だから、君の学生証も渡して欲しい。持っておいた方がより確かだと思うんだ」
「あ、うん」
ルーシャスは頷いて、制服の内ポケットを探り学生証を出した。氏名と学年が記されただけの、単なる名刺のようなカードである。それを渡してやると、エイミルはつくづくと眺めて皮肉げに笑う。
「うちの学生証は写真も付いてなくて粗末なもんだと前々から思ってたけど、今回ばかりはそれが幸運だったな。シャローマ学院の方も写真証明を取らないなんて、結構いい加減みたいだし」
それはもっともだとルーシャスは心中で同意した。学院がどういうつもりでルーシャスを招いたのか知らないが、こうしていくらでも偽装できそうな状況からすると、確実に本人を迎える気があるのかどうか怪しく思えてくる。
「ま、何にせよ、これで完璧だろ。さて――」
エイミルは封筒をしまってトランクを閉め、ベンチから立ち上がった。そして座ったままのルーシャスを振り向いて、ベンチに置いたままのトランクを指す。
「その金は確かに渡したよ。でも絶対に少しずつ使ってくれ、一度に大量に使うと足が付くから」
「うん」
「それと、どこに行くのも君の自由だけど、ロンドンには出来ることなら戻らない方がいい。外出中の生徒や先生に出くわさないとも限らないから」
「わかった」
若干強めの口調で述べられる注意事項に、ルーシャスは大人しく頷き返した。
エイミルは一つ肩で息を吐く。
「そのぐらいかな。後は適当に上手くやってくれ。じゃ、僕は行くから」
そう言って服装を正し、踵を返す。その後ろ姿に向かって、ルーシャスは少し考えてから、声をかけた。
「えっと……頑張って」
振り向いたエイミルは、どこか苦々しい表情に見えた。そしてルーシャスを一瞥すると、再び前を向いて歩き始めたのだった。