§1

「あのー、すみません」

 そう声がして、ルーシャスはぴくりと肩を震わせて顔を上げた。列車に揺られるうち、いつの間にか眠っていたらしい。

 しまった、今どこだろう。いやいいんだ、終点まで乗るんだった。

 瞬時にそんな思考が頭をめぐり、上がりかけた動悸を抑える。

「あの……?」

 気付けばボックス席の入口に一人の子どもがいて、首を傾げてルーシャスを覗きこんでいた。十歳くらいだろうか、黒髪黒瞳の東洋系の顔立ちだ。全身黒ずくめで、鍔広帽にマントのような外套を着ていて、襟元から白いレースのスカーフなどふんわりと覗かせている。そんないつぞやの貴族のような衣装に、ルーシャスは無言で目を瞬いた。

「起こしてしまってごめんなさい。ここ、座ってもよろしいでしょうか?」

 子どもが向かいの席を指しながら言った。齢の割にいやに丁寧な口調だ。

「あ……ああ、どうぞ」

 気の抜けた返事をしながら、ルーシャスは向かいの席に自分のトランクがあることに気付き、慌てて引っ掴んで席を空けた。脇に置いていたつもりだったのに、いつ前に置いたのだろうか。

 子どもは「どうも」と頭を下げて、大きな黒いトランクを引っ張りこんでくる。大人が丸くなれば入れるぐらいの幅と奥行きのある、長期旅行用のトランクだ。金具や鋲の付いた頑丈そうな作りで、鞄そのものだけでも重そうに見える。小柄な体躯には不釣り合いな大きさのそれを、しかし、子どもはひょいと持ち上げる。

「!?」

 思いもかけない行動に固まるルーシャスの目の前で、子どもはトランクを座席に載せたのだった。床に置くと足場がなくなるような大荷物である、その行動自体に不思議はない。問題はそこではない。

 トランクの置かれた座面を見ればずしりと沈みこんでいて、その確かな重みをルーシャスに想像させた。子どもはといえば何事もなかったような顔で、トランクの横のわずかな隙間に小ぢんまりと収まる。それきり俯いてしまい、鍔に隠れて顔は見えなくなった。

 妙だなとルーシャスは思う。

 いかにも重そうな荷物を軽々持ち上げたのは置いておくとして、こんな子どもが、一人きりで旅行している様子に違和感があるのだ。ルーシャスの知る限りでは、十二歳に満たない子どもが一人で放っておかれる状態など許されることではないはずだった。

 と、少し気になったものの、普通に列車に乗っている時点で改札を通れたということだから、特に気にすることもないかと思いなおす。もしかすると近くの席に保護者なりがいるのかもしれない。あまりじろじろと人を見るものでもないしと、ルーシャスはすぐに視線を窓の外に移した。

 十二月も半ば。雪こそ降っていないが冬空は灰色、広がる平原もどこか色味に欠ける。と、急に木々が増え、列車は森林に入った。

 暗い背景になったとたん、窓ガラスに車内の影がくっきりと映し出される。自分の影と目が合ったルーシャスは、跳ねた前髪に気付いて手で押さえ、軽く息をついた。

 幼児のように色素の薄い金髪が、寝ぐせの直らないままなのは相変わらず。黒のブレザーにスラックス、白いシャツの襟元に深紅のリボンタイを結んだ、古典的な制服姿もいつも通り。

 しかしコートと旅行鞄を傍らにこうして列車に座っているという状況は、ルーシャスの十五年余りの人生においてそうそうあることではなかった。いや、正確に言うともう十六歳が近く、列車に乗るのはほんの二度目だ。

 最初は十歳のとき、寄宿学校に入るために、あのときは列車でロンドンまで行った。今回は海外に留学するため、列車に乗ってロンドンを出てきた。

 考えてみれば、えらい大移動だなと思う。

 ルーシャスの生まれはブリテン本島ではなく、アイルランド島の方だ。そこから海を渡って南下してロンドンへと、これだけでも個人的にはものすごく距離を感じたものだった。

 しかし今度の留学先というのは、大陸に渡って南へ東へ、メソポタミア地方の都市アルマディナだ。頭の中でぼんやりと地図を描いても、そこまでの距離は果てしなく遠く思われる。新学期が始まって間もないころ、いきなり理事長室に呼び出されて「アルマディナへ留学するように」と命じられたときは、一体何の冗談だと思ったほどだ。もっとも、校長や教頭やその他強面の大人たちに取り囲まれていたおかげで、そんな考えはすぐに押し込められたのだが。

 そもそも、本人の意思と無関係に留学の話を進めるというは一体どういう了見だろう。何か選抜試験があったわけでもないのに、よりによって自分が留学しなければならない理由がルーシャスには全く思い当たらなかった。奨学金をもらっているのだから学業成績はそこそこ上位に入るのだが、だとしてももっとふさわしい学生がいくらでもいるだろうにと、首をひねらずにはいられなかった。

 それを理事長らに直接訊いてもみたが、適当にあしらわれまともな答えは返ってこなかった。それでもルーシャスは苦し紛れに、一人でアルマディナまで行くのは無理だと主張したのだ。実際、そこまでの道順を知っていることなど端から期待されているはずもなく、迎えの者が来るから問題ないとあっさり言われてしまった。

 結局うやむやのうちに出発の日になり、ルーシャスはまるで追い出されるような気分で寮舎を出たのであった。

 迎えが来るのは港町ドーヴァー。

 流石にそこまでは列車に揺られるだけである。ただし二時間程。

 今日はちょうど学校も冬期休暇に入った日で、地方に帰省する寮生も多く、列車が出てしばらくは同じ車両内にも見慣れた制服が目についた。しかし今見渡してみても、一人も見当たらない。

 帰る実家のないルーシャスは長期休暇中もずっと寮で過ごしてきたため、帰省組に知り合いはいなかった。従って彼らの輪に加わることもなく一人で座っていたのだが、それがいざいなくなってみると、いよいよ学校という日常が遠ざかったという気がしてならなかった。

 どれほどの時間眠っていたのか知らないが、終点のドーヴァーももうすぐなのだろう。

 ルーシャスはどうにも鬱々とした気分だった。本当に遠い異郷へ留学などしなければならないのだろうか。言葉は通じるのか。勉強はついていけるのか。

「色々無理だ……」

 小さなため息とともに心の声が思わず口に出てしまい、ルーシャスは我に返る。

 案の定、子どもが不思議そうな顔でこちらを見ていて、ガラス窓を媒介に目があってしまった。反射的に目をそらしたルーシャスは、視線を彷徨わせた挙句、自分の膝の上に落ちつく。

 それは長く続くと首が痛くなる角度だったが、それでもルーシャスは、しばらく顔を上げる気になれなかった。

***

 ドーヴァーについたのはちょうど昼時だった。

 駅舎を出たところで、ルーシャスは硬くなった首を軽く揉み解す。心なしか背中や腰も痛い。二時間近くも座りっぱなしでは血流が滞っていて当然だ。何をせずとも長距離移動だけで疲れるものなのだと初めて実感した。

 そんなルーシャスの横を、あの黒ずくめの子どもがとろとろと通り過ぎる。結局、終点まで一緒に乗り合わせたのだが、やはり他に連れがいる様子はなかった。子どもは巨大トランクを引いて、ひとり街中へと歩いていったのだった。

 その小さな背をぼんやりと見送ってから、ルーシャスは一息ついて、近くにあったの案内板の前に立つ。迎えの人間との待ち合わせ場所を確認するのだ。

 駅前は実に閑散としたものでルーシャスには意外だったのだが、地図を見る限り、市街は港の方に集中しているらしい。先方からの連絡では、一度合流して、それから港へ行って船に乗ろうということだった。どうせなら直に船の乗り場で落ち合ってもよいのではないかとルーシャスは思ったのだが、よく考えれば港は込み合うだろうし、互いに見つけられなかったらことである。

 ルーシャスはコートのポケットから手帳を引っ張り出して開いた。手帳は学校からの支給品だったが、普段まめに用事を書き留める習慣はルーシャスにはない。今回の旅でようやく活用するときが来たというのに、重要事項をどこに書いたのだったかともたもたページを繰る有様だ。

 その時。

「ルーシャス・ブライア」

「!」

 全く不意に背後から名前を呼ばれ、ルーシャスは反射的に振り向き身を引いた。そしてそこにいた人物を見とめ、少しばかり眼を見開く。

 少年だ。自分と同じ年頃で、全く同じ制服姿。

 しかし、その少年はルーシャスとは違い粛々とした印象がある。コートも制服もおろしたてのようにぱりっとしていて、暗い色合いの金髪は長すぎず短すぎずきちんと整えられていた。

「ごめん、驚かせて。少し話があるんだけど」

 硬い表情と声でそう言った少年に、ルーシャスは何となく見覚えがある気がした。

「……えっと?」

 しかしすぐには思い出せず遠慮がちに首をかしげると、少年の眉根に小さく皺が刻まれる。相手の一瞬の変化を見て取って、ルーシャスは少しだけ反省した。どうにも人の顔と名前を覚えるのは苦手なのだ。

「エイミルだ。エイミル・バートソン」

 ヘイゼル色の瞳で真っ直ぐにルーシャスを見据え、少年は先刻より角々しい口調で名乗った。だから、そこで思い出せたのはルーシャスにとって幸いだっただろう。

「あの、監督生の……」

「そうだよ。今朝も点呼で顔合わせたと思うんだけど」

 おずおずと言ったルーシャスに、少年は嫌味で返してきた。

 少年――エイミル・バートソンは、同学年で一番の優等生で、覚えめでたい監督生で、実家も結構な資産家ということで、校内でも一際名の知れた生徒なのだった。

 そういうわけでルーシャスは、エイミルの名前と肩書は記憶していたが、まともに顔を見たことがなかったので、実物を前にしてなかなかその名に結びつかなかったのである。しかしエイミルにしてみれば、自分のことを知らない生徒など普通はいないのだ。それ以前に、同じ学年で、しかも毎日朝晩姿を見るはずの監督生が分からないとくれば問題外である。多少怒るのも無理はなかった。

 それにしても、とルーシャスは戸惑っていた。

「あのそれで、話って?」

 この監督生の少年が一体自分に何の用があるのか、見当もつかない。

「ああ、うん。大事な相談があるんだ」

 エイミルは静かにゆっくりと頷く。冗談のようでもない、真剣な表情だ。

 大事な相談。

 ルーシャスはいよいよ訳が分からなくなった。会話をしたこともないのに、いきなり相談とはまた何事だろう。そもそも、自分ごときがエイミルほどの人間の悩み事を解決する端になり得るとはつゆほども思えないのだが。

「その……」

 言い淀んで、エイミルは周囲を窺うように首を巡らせた。一度視線を落としたかとおもうと、ルーシャスをきっと睨め付けてくる。

 ただならぬ様子に、ルーシャスは思わず一歩下がった。その拍子に案内板にぶつかり、慌てて背を反らす。

 微妙に緊張した空気が流れ――

 エイミルは、声をひそめてこう言ったのだった。

「留学、僕と代わってくれないか」