§4
客の少ない薄暗い喫茶店、通りに面した窓際の席で斜向かいに座るクレイとルーシャスのもとへ、二人前の紅茶とサンドイッチが運ばれてきた。給仕は注文を取ったときと同じように、物珍しそうな視線を寄こしながら黙って下がっていく。
クレイは両手を合わせて軽く拝むと、まずシュガーポットを引きよせ、砂糖をスプーン山盛にすくって何杯も紅茶に入れ始める。それを呆れて眺めていたルーシャスだったが、気付いたクレイに睨まれたので、慌てて目を逸らした。
先刻、これまでの嘘をあっさりと暴かれて言葉を失ったルーシャスに、クレイは何食わぬ顔で当初の予定通り昼食を奢るよう要求した。どんな高級店に連れて行かれるのかと思いきや、クレイが入ったのはこの飾り気のない小さな喫茶店。頼んだのも一番安い胡瓜のサンドイッチ。
クレイが一体何を考えて、自分達の企みを見抜いたうえで知らぬふりをしていたのか、今もこうして自分と食事の席についているのか。その意図を測りかね、ルーシャスは身じろぎもできず縮こまっていた。
「お砂糖、入れます? 牛乳は私は要らないので、お好きなだけどうぞ」
砂糖たっぷりの紅茶をぐるぐるとかき混ぜながら、クレイが言った。
「……じゃあ、牛乳だけ」
許しが出たので、小さく十字を切り、そろそろとミルクポットに手を伸ばした。牛乳を注いで紅茶と混ぜる間、ふと顔を上げると、クレイがじっとこちらを見ていた。
「あの、何?」
「いえ。十字架のお守りといい、食前のお祈りといい、敬虔な方ですね」
「別に、そういうわけでも、ないけど」
「ご謙遜を。自分を差し置いて他人の心配をしちゃうそのお人好しぶりが、何より貴方の人柄を表していると思いますよ、ルース君」
クレイがわざとらしく名を呼んだ。
「あの、その呼び方は、もう……」
正体がばれているのに偽名を使うこともない。心を読めるというクレイに対しては最初から無意味だったわけだが、彼女の眼に自分はどれほど滑稽に映っていたことだろう。
「どうして、知らないふりなんてしてたの?」
「他人の秘密を知ったらいちいち騒ぎ立てなきゃいけないんですか? ばらしたら貴方がたが困るでしょうから、黙って話を合わせてあげたに決まってます。貴方がたがアッザハルの連中をどこまで騙せるか見物でしたし」
「じゃあなんで、僕一人になってもしばらく続けてたの」
「ちょっとした意地悪です」
澄まし顔でそう言うクレイ。態度を取り繕うこちらを観察して内心楽しんでいたのだとしたら、人が悪いにも程がある。ルーシャスが恨めしげに見やると、クレイは肩をすくめた。
「そんな顔しないで下さいよ。そっちが最初に嘘をついてたんですから」
全くもって反論のしようがなかった。
「まあこれまでのことは置いといて。これから貴方、どうするつもりですか?」
「え?」
「ずっと気になってたんです。貴方みたいなぼんやりした子が一人路頭に迷うなんて、先が思いやられて仕方ないってものでしょう」
「そう、かな、やっぱり」
「そうですよ。お金があれば何とでもなるってもんじゃありませんし。だいたいそのお金を取り上げられそうになったときも何もしないで諦めようとしますし。今回は運良くうやむやになったので取り返すことが出来ましたけど、毎度そううまくは行きませんよ。生きていくってそれだけで厳しいものなんですから」
「う、うん……」
説教が耳に痛い。だが今後どう生きていくかなど、まだ具体的には考えられなかった。とりあえず細々と食いつなぎながら、仕事を探して――とはいえ、身元不明、住所不定でまともな仕事にありつけるのだろうか。
「何にも考えがないなら、今からでもリヒター氏のもとに戻って白状するのが無難じゃないですか。酷く怒られるでしょうけど、生活は安泰でしょう」
「今更そんなこと、できないよ。シャローマ学院には、エイミルが行くんだから」
「そこは変に意思が固いんですねぇ。まあ、今貴方が本物だとわかったら、貴方の偽物であるバートソン君がどうなるか分かりませんしね」
「……それ、どういうこと?」
不穏な言い草に、ルーシャスは恐々と訊き返した。
クレイはすぐには答えず、紅茶を飲もうとして、しかしまだ熱かったのか顔をしかめつつカップから口を離した。
「拉致されたのがシャローマ学院に召し上げるための学生なら、救出のために動くかもしれませんが、一般の学生ならただの行方不明として処理されるかもってことです」
「何、それ」
「アッザハルにとって助けることが得になる人物でなければ、捨て置く可能性も考えられますよ。どうせこの件が表沙汰になることはないんですから、対応が悪くても外部から責められることもありませんし。加えて、バートソン君は実家に絶縁状を送りつけてきたとのことですから、謎の失踪を遂げても世間的には家出として片づけられやすい。見捨てるには大変好都合なわけです」
一気に言い切ると、クレイは真面目な顔で紅茶を吹き冷まし、そうっと慎重に、一口すすった。
「で、でも要は、ばれなきゃいいんだし、仮にばれたってアッザハルの人達も一緒にさらわれたんだし……それ以前に見捨てるなんて、だって慈善団体、なんだよね?」
「慈善団体だからってその構成員が全て善良な人間とは限りませんし、そうでなくても常に慈善の心に則って行動するとは限りませんでしょ。組織のためにやむなく個人を犠牲にすることだってあるんじゃないですか。というかそういう黒い部分がアッザハルになければ、今回の事件の根幹である内部抗争だって、端から起こってませんよ」
そういうものだろうか。確かに、テロ紛いの襲撃が横行する内部抗争など尋常ではない。反発を受けるからにはそれなりの理由があるのだろう。そうだとすると、あまり考えたくない結論にたどり着く。
「それって、どのみち見捨てられるかもしれない、ってことじゃあ――」
「そういうことになりますねぇ。今回の件に関してアッザハルがどう動くかはまだ分かりませんけれども、雲行きは怪しいですね。リヒター氏も電話口で何やら怒鳴り始めましたし、その隣でマダムがお困りのご様子です」
こうして話している間も、クレイはずっとヴィンフリートたちの動向を窺っていたらしい。便利な能力には感心するが、追い打ちをかけるように悪い状況を伝えるのは勘弁して欲しい。
「……エイミルは、関係無いのに」
「貴方に成りすました時点で無関係だなんて言えないでしょう。自業自得じゃないですか。優等生だか何だか知りませんけど、お金で他人の身分を買って、いい目を見ようとしてたわけですし。ちょっと痛い目に遭って反省するといいのです」
「でも彼は、シャローマ学院で勉強がしたかっただけで――」
「そんなの理由になりません、傍から見ればただのわがままです。それに付き合って軽々しく名前を売っちゃう貴方も貴方ですよ。二人とも考えが甘すぎです。だから余計な後悔をする羽目になるのです」
「……ごめん」
「私に謝っても仕方ないでしょうが」
ぴしゃりと撥ねつけられて、ルーシャスは俯くしかなかった。
クレイはカップを置いてため息を吐く。
「要するに貴方に言いたいことはですよ。バートソン君が心配だからって、何も出来ないんならどれだけ気に病んだって無駄です。いつまでもうじうじと思い悩むのは止めて、さっさと忘れて自分の日常を取り戻すに尽きます。これに懲りたら、今後は軽はずみな行動は慎むことですね」
諭される通り、軽率過ぎたのがそもそもの原因であったように思う。シャローマ学院への編入に気が進まずにいたところへ、エイミルが替え玉話をもちかけてきたものだから、これ幸いとばかりに承諾した。それがこんな事態になるとは想像だにしなかった。無関係な人間を身代りにしてこんなに後ろめたい気持ちになるくらいなら、恐ろしくても自分が拉致されていたほうがまだましではないか。
そう考えて、ふと思いつく。
「あの……あのさ、向こう側にばらすのは、どう、かな?」
クレイは砂糖を追加投入していた手を止めた。
「向こう、といいますと?」
「えっと、アッザハルにじゃなくて、エイミル達を連れ去った犯人側に。エイミルじゃなくて僕がルーシャス≠セって分かったら、エイミルを解放して、僕を捕まえようとしないかな。それで、エイミルは僕のふりをしたままアッザハルに保護してもらえば、丸く収まると思うんだ」
アッザハルに二人の正体を明かしても、ルーシャスは本来の予定通り留学させられ、エイミルはそのまま見捨てられる可能性が高く、各々にとって好ましくない。
だがアッザハルの反対勢力に対して名乗り出れば話は違うはずだ。人質として拉致したのが別人であったとなれば、向こうとしてもそれ以上エイミルを留め置く意味はないし、ルーシャス本人の身柄と引き換えに解放してもらえるかもしれない。そしてアッザハルの方には秘密にしておけば、エイミルは計画通りルーシャスの替え玉としてシャローマ学院に行くことができる――かもしれない。
「どこが丸く収まるんですか。貴方、捕まりたいんですか?」
何とも不可解そうに眉をひそめるクレイ。
「いや、まあ、もともと僕が連れていかれる予定だったんだし、仕方ないかなって」
「仕方ないって、せっかく幸運にも危難を免れたのに、わざわざ首を突っ込むことないと思うんですけど。そこまでしてバートソン君を助けて、何か貴方にいいことが?」
「え? えっと、僕は別に、得になるからとかじゃなくて――」
損得勘定をはっきりさせないと納得してもらえないのだろうか。どう言えば自分の考えを伝えられるものかと、ルーシャスは言葉を捻り出す。
「僕、シャローマ学院への編入を譲る代わりに、このお金を貰ったんだけど。エイミルが無事に助け出されなきゃ、彼の目的は遂げられないままで、僕がお金を受け取っただけになって……だから、それはよくないというか、不公平だと……」
たどたどしい説明を聞きながら、ふうんと首を傾げるクレイ。
「でも、貴方はお金をもらって得をしたってわけじゃないですよね。エリート学生として約束された将来を棒にふったばかりか、社会生活上の身分を失って路頭に迷うことになったんですし。おあいこでしょう」
「ううん。僕は納得してのことだし、少なくとも自由だから、いきなりわけも分からない状況で拘束されるのとは、わけが違うと思う」
「そうは言ってもバートソン君は文句言える立場じゃないでしょう? なりきるつもりでいるんなら、“ルーシャス・ブライア”という人物に降りかかる良いこと悪いこと全部、受け入れて然るべきじゃないんですか」
「それは、エイミルも分かってるはずだけど……さすがに拉致されるなんて、想定外にも程があるし、やっぱり彼の分が悪過ぎだよ。このままじゃ、僕だって気が済まない」
エイミルだって今までの自分を捨てる覚悟をして、家族と縁を切り、大金を差し出してルーシャスと取引したのだ。その見返りをちゃんと手に入れてもらわなくては、割に合わないというものではないか。
「気が済まない、ですか」
クレイは興味深そうに繰り返した。
「つまり貴方は、バートソン君があんまり不憫で気になって仕方がないから、彼を助けて自分もすっきりしたいと。自分が苦労しても構わないのは、彼に対する罪悪感を解消するためだからと、そういうことですか?」
「うん……? まあ、そういうこと、だと思う」
他人から言われてみると、自分の動機が何やらひどく利己的なものに思えた。エイミルのためというより、自分の心の平穏のためというような、そういう論理だ。
それを指摘したと思しきクレイはしかし、ルーシャスを責めるでもなく、何故か得心顔で大きく頷いた。
「よく分かりました。ただ心配だからなんて言うのでしたらまた叱り飛ばすところでしたが、貴方自身のためでもあると考えているのならばいいでしょう」
「な、何が?」
「先程貴方が仰ったバートソン君救出作戦のことです。貴方が自分のためと自覚して、自ら体を張る気になったようですから、もう止めはしません。代わりに提案があるのですが――私を雇う気はありませんか?」
「……はい?」
一変したクレイの態度に、今度はルーシャスが首を傾げた。
「雇うって、どういうこと?」
「作戦を実行するにあたって、貴方の補佐をしましょうと言っているのです。現実的に考えてみて下さい、貴方一人でバートソン君を助けられます? 犯人らの居所を探し当てて、そこへ乗り込んで行って交渉して、バートソン君を解放させなきゃらならないんですよ」
「……難しい、かな」
無理とは言いたくなかったが、難しいどころの話ではない。犯人らの居所が分からないなら、この制服姿でアイルランド島に行き、わざと誘拐されてみるという手もある。だが、ルーシャスの身柄と引き換えにエイミルの解放を迫るのだから、交換条件を突きつける前に捕まってしまっては意味がない。
「そこで、私がお役にたてると思うのです。もうお分かりの通り、探しものは得意ですし、口も達者だと自負していますので、交渉も上手く進められます。これでも色々と修羅場をくぐってきましたから、いざというときの用心棒にもなりますよ。いかがです?」
確かに遥か海上を往く船が見えるというクレイの千里眼なら、エイミルが囚われている場所を探すのも容易だろう。口が達者というのも、その通りだと思う。ただ、用心棒をしてくれるというのは小柄な少女に言われてもいまいち説得力に欠ける。このなりで今まで無事に一人旅をしてきたというところを見れば、運はいいのかも知れないが。
しかし、ヴィンフリートに協力を請われたときは無下に拒んでいたのに、一体どういう心変わりなのか。
「えっと、手伝ってくれるの? さっきは、頼まれても断ってたのに」
「あの人の要求はただ働きでしたから、そんなのはごめんです。私が申し出ているのは、善意のお手伝いではなくて、お仕事です。報酬はきちんといただきます」
報酬と聞いて、ルーシャスは傍らに置いた小さいトランクを見た。
「これ全部で、足りる?」
真剣に聞いたつもりだったが、クレイは困惑顔で首を横に振る。
「ご冗談を、全部はいりませんよ。その中から二、三束ほどで。事が終ったら請求書を出しますので、支払いもそのときに」
「後払いでいいの?」
「結構です。仕事の内容と結果を鑑みて額を決めますから。貴方の目的を果たせなかった場合は、実費だけになりますし」
「果たせなかった場合って――」
「そうならないように力を尽くします。私だってどうせなら満額いただきたいので。けれどもこういう仕事に絶対は保証できませんから。どうします? 私を雇うか、それともやめておくか、よく考えて決めて下さい」
改めて考えるまでもないが、一人ではエイミルを助けられない。誰かの協力を仰ぐとしても、ルーシャスには何の伝手もないし、これから探す猶予もない。クレイが果たしてどれだけ本気なのかは正直判らないが、それでもこの奇妙な少女に依頼するのが、今は最善の手立てだろうと思われた。
顔を上げ、真っ直ぐにクレイを見据える。
「よろしく、お願いします」
クレイは微かに口元をほころばせ、「承りました」と軽く頭を下げた。
「さて。そうと決まれば具体的に作戦を練り――おや」
言いかけて止まったクレイに、ルーシャスは嫌な予感を覚えた。
「何か、あったの?」
「えーっとですね……今、リヒター氏が事務所を飛び出していきまして。どうも上からの指示に納得できなくて、独断で救出に向かおうとしているようです」
「え、ええ!?」
「どうしましょうね。勝手に動かれても困りますが、上手くすれば利用できるかも知れませんし。さっさとお昼を平らげて、様子を見に行きましょうか」
温くなった紅茶で乾きかけたサンドイッチを喉に流し込むと、二人は早々に店を後にした。