§2

 下へ降りるついでに各階で再びマダムを探したが、結局どこにも見当たらなかった。買い物にでも出ているのかもしれない。もうこのまま黙って発とうかと玄関ホールで考えていると、

「あ、ルース君。よかった、まだいましたね」

 奥から、すっかり身支度を整えたクレイが出てきた。鍔広帽子と外套で全身黒ずくめ、襟元には白いスカーフ。背後に巨大トランクを引いて、昨日列車で初めて顔を合わせた時とほぼ同じいでたちだった。

「ほら、これこれ」

 先程の膨れ面はどこへやら、もう機嫌を直した様子で、片手に持っていた小さなトランクを突き出してくる。例の札束の入ったものだった。

「これ……なんで?」

 てっきり、今朝がた出発したハディア達がとっくに警察に届けたものと思っていたのだが、なぜまだここにあるのだろう。急ぐあまり忘れていったのだろうか。

「今そこの物置に鞄を取りに行ったら、一緒にあったので持ってきました。ドアの鍵のおかげで、強盗にも盗られずに済んだみたいですね」

「そ、そう……」

 強盗の話には触れないでおこう。

「あ、じゃあ鍵開けてもらったんだね? マダム、いたんだ」

「いえ、鍵は自分で開けました。あの人なら、夜中に出かけたきり、戻ってきてないみたいですけど」

「そう、なの?」

 それが本当なら、泊り客を置いてどこへ行ったというのだろう。

「でも、いなくて都合よかったじゃありませんか。いたらきっとこのお金は渡してくれませんでしたよ」

 確かにその通りだが――。

「それより、その中身、減ってないか一応確認したほうがいいと思いますけど」

「う、うん」

 促されるままにトランクを開けてはみるが、そこに整然と詰め込まれた札束を見ただけで胸がいっぱいになった。いちいち枚数を数える必要もないだろう。数枚なくなっていようといまいと、これだけあればしばらくの生活には困らない。憂いがひとつ消え、ルーシャスは安堵して蓋を閉めた。

「そんなざっと見ただけでいいんですか?」

「え、うん、まあ、大丈夫だと思う。あの……ありがとう」

「は? 何がですか?」

 唐突に感謝の言葉を述べると、クレイが怪訝そうな顔をした。

「いろいろ……これもそうだけど、昨夜も、僕の荷物ちゃんと返してくれたし」

「そんなの当たり前でしょう。変な人ですね」

「いや、だって、君には迷惑かけたのに……」

「まだそんなこと気にしてたんですか? まったく」

 呆れた顔で腰に手を当てるクレイ。

「別に迷惑ってほどのことでもなかったですし、こうして晴れて自由の身なんですからもういいじゃありませんか。だいたい迷惑なんて言い出したら、私のほうがあなたに激突したり暴行したりと酷いことしたと思うんですけど」

 言いながら、クレイは少し気まずそうに目をそらす。

「でも、もともと僕が悪いんだし――」

「もう! いつまでもうじうじとしつこいですね! じゃあどうすれば気が収まるんですか」

 クレイが面倒臭そうに声を荒らげたので、ルーシャスは一旦口を閉じて、それからどうしたいのか少し考えた。

「えっと、君に何か、お礼、というか、お詫び……?」

「ほう。私に何かして下さると」

「うん、何でも……ああいや、僕に出来る範囲のことで、だけど」

「例えば何が出来るんです?」

「え? それは……」

 言われてみれば、我ながら何をするつもりでいたのか。今の自分に出来ることといえば――自然と腕に抱えたトランクに視線が行く。しかし、

「まさか、お金でお礼だなんて味気ないこと言い出す気じゃないでしょうね」

 申し出るより早く釘を刺されてしまう。

「こんなことでお金もらってもなんか後味悪いじゃありませんか。あと正直、そんな得体の知れないお金、もらえません」

「そう、だよね……」

 確かに、金銭で済まそうなんて安易な考えだった。では、他にどうすればいいのだろう。

 真剣に悩んでいると、見兼ねたらしいクレイがひとつため息をつく。

「同じ出費なら、お昼をご馳走してくださると嬉しいんですが、それでいかがです?」

「お昼?」

「起きてからまだ何も食べてないでしょう。あなたもお腹空きません? この時間ならもうお昼ご飯にしてしまえば、ちょうどいいと思うんですけど」

「う、うん」

 良い提案だと思った。お詫びにというなら食事を奢るくらいが最適だろう。それを自分から思いついて言えたなら、もっと格好もついたのかもしれないのに。

「じゃ、決まりですね。行きましょうか、ルース君」

 クレイは満足げに微笑むと、巨大トランクを押して玄関の扉へと向かう。

 君付けで呼ばれるのがいい加減くすぐったいような気もしながら、ルーシャスは大人しく後に続いた。

   ***

 外は冷たい風が吹き荒れていた。そのせいなのかどうか、昼間にもかかわらず港へと続く町並みに人影はまばらだ。

「寒いですねえ。あったかいものが食べたいですね」

 前を歩くクレイがぼやく。帽子が飛ばされないようにずっと押さえているが、外套は風に暴れさせるがまま。どうかすると身体ごと吹き飛ばされそうだと思いながら見ていると、その小柄な後ろ姿がふいに足を止め、振り返った。

「あの、そんなに後ろを歩くこと無いんじゃありません? 話しにくいんですけど」

「え? ああ……ごめん」

 ルーシャスは、クレイの五、六歩ほど後方を付いて歩いていた。あんまり近寄るのも馴れ馴れしい気がして適度な距離感を測りかねた結果だったのだが、やはり不自然だったらしい。ルーシャスが追いついて隣に並ぶと、クレイも再び歩き出す。

「それで、ルース君は、何か食べたいものは?」

「別に……何でも」

「好き嫌いとかないんですか?」

「うん、特には」

「それはすごいですね。私なんか嫌いなもののほうが多いので、外食はなかなか難しくて」

「そう……えっと、じゃあ、いつもどうしてるの?」

「んーまあ、パンがあれば贅沢は言いませんよ。どうせ色々食べられるほどいつもお金を持ち合わせているわけじゃありませんし。でも折角ご馳走になるんなら、遠慮はしない主義なので、あしからず」

 そう言って強かな笑みを浮かべるクレイ。たかるから覚悟しておけということだろうが、そうは言っても食事代ぐらいならば今のルーシャスの懐は痛まない。

「あの、訊いてもいいかな」

「はい何でしょう?」

「君って、その……何してる人?」

 ずっと気になっていたことを思い切って尋ねてみた。昨日今日と短い仲だが、言動は奇怪で時折乱暴でも、基本的に優しくて良い子だと思う。だが、子どもで一人旅をしていて、小奇麗な身なりをしている割に金欠気味らしく、保護されたかと思えば遥か遠方のアルマディナに連れて行かれそうになるという、傍から推し測るには謎だらけの存在だった。

「一応、旅芸人をしています」

 返ってきたのは、予想外のような、だがしっくりとくる答え。

「旅芸人……」

「ええ、大道芸を主に。たまに露店をやったりもしますけど」

「じゃあ、その稼ぎだけで暮らしてるの?」

「そりゃあ、他に当てはありませんからね」

 当然とばかりに頷くクレイ。のんびりと学生生活を送ってきたルーシャスからすれば、子どもが自力で働いて生きているなんてそれだけでものすごいことだった。

「いつから?」

「そんなに長くもないんですよ。独り立ちしたのは二年前で」

「独り立ち?」

「以前はサーカスというか、雑多な興行団に入ってたんですよ。そこでの下積み時代から合わせても、せいぜい五年ぐらいですかね」

「へえ……」

 そういう世界のことは全く分からないが、この幼さで独立させたりするものなのだろうか。

「大変だね。そんな、若いのに」

 そう言うと、何が可笑しいのかクレイがくすくすと笑い出した。

「若いって、ふふ、あなたがそれを仰いますか」

 確かに年寄りじみた口振りだったと自分でも思うが、そこまで笑うこともないだろうに。

「だって、どのみち僕よりは若いでしょ」

 苦し紛れに言い訳をする。だが、クレイは笑みはそのままに少し困ったように眉を寄せ、こちらを見上げてきた。

「んー、そうでもない気がするんですけどね」

「……君、いくつなの?」

「女性に年齢を訊くもんじゃありません」

 せいぜい十ぐらいにしか見えない少女が澄まし顔でそんな台詞を言っても、あまり様にはなっていない。

「言いたくないような歳には、見えないけど」

「だから余計に言いたくないんじゃありませんか。大抵信じてもらえないんですもん」

「じゃあ本当はいくつなの?」

「四捨五入したら二十歳になります」

「……最低でも、十五歳?」

「ですね。しかし十五ではないです」

「それじゃ、僕より年上ってことになるけど」

 とてもそうは見えない。

「ですからさっきそう言ったでしょう、あなたより年下な気はしないって。というか、そうですか、あなたは十五歳ですか」

 クレイは改めてこちらを振り仰ぎ、しげしげと眺めてきた。

「で、でも、もうすぐ十六になるし」

「ふうん。どっちにしろあんまり見えませんね」

「どういう意味、それ」

「覚束ないというか、頼りないというか、そういう意味です」

「…………」

 それは重々自覚していることなので言い返しようもなく、ルーシャスは口をつぐんだ。

「ちなみに、十六歳でもありませんから、私」

 さらに上だというのか。四捨五入で二十歳というならば、

「まさか、二十四――」

「なんでそこでいきなり上限にいっちゃうんですか! あと一歩だったのに!」

 ルーシャスが言うが早いか、クレイがじれったそうに地団駄を踏んだ。

「あと一歩って、えっと、じゃあ、十七、歳?」

「正解。そういうわけで私の方がお姉さんなんですから、そこのところわきまえといてください。子ども扱いしたら怒りますから」

 クレイは妙に得意げな顔をしている。これで年上だと言われてもちっとも説得力がない。

「ほんとに?」

「本当ですよ、信じてませんね? 私だって好きで小さいわけじゃないんですから。ちょっと発育不良なだけで」

 一転、クレイは口を尖らせた。

「……ごめん」

「いいえ、別にもう慣れてますから。こんななりだと行く先々で似たような押し問答の繰り返しなので。補導だの保護だの、お節介な連中がしょっちゅう寄って来るし、全く面倒ですよ」

 忌々しげにぶつくさと呟くクレイ。よっぽどうんざりしているらしい。

「じゃあ昨日もやっぱり、そういう理由で追われてたの?」

「ええ、まあ……そんなところです」

 クレイは少しだけ曖昧に頷いた。

「アッザハルには前にも何度か捕まったことがあって。まあ、いつも食事もらってしっかり休んだあと脱走してたんですけど」

「アッザハル?」

「さっきまでいたとこですよ。だいたい主だった都市ごとに支部を置いてるんですが、さっきのとこみたいな小さい出張所もぽつぽつあるので、意外と気が抜けません。アッザハルの話は、昨夜ちょこっと聞いたでしょう? あなたの故郷のことで」

「え? ああ、うん、聞いた、けど――」

 ヴィンフリートたちの所属する組織の話。そのアイルランドの各支部で内部抗争が起こっていて、系列校の学生が襲われるという物騒なことになっているらしい。その組織の名がつまり、アッザハルというのか。

「あの、そこって有名、なの?」

 少なくともルーシャスは昨日まで全く知らなかったし、たぶんエイミルもそうだ。なのにクレイは、秘密にされているはずのアイルランドでの騒ぎも知っている様子だった。

「うーん、知ってる人は知ってる、ってくらいじゃないでしょうか。発祥地のアルマディナはアッザハルの城下町ですし、西アジアでは特に影響力が強いそうですが、この辺――ヨーロッパでは、あんまり看板を押し出してはいないみたいですからね」

「そうなんだ……君は、よく知ってるね」

「一応、歴史ある世界的な慈善団体ですからね。本当にどこにでもはびこってるので、捕まるうちに何かと知識がついちゃいました。慈善活動家とかお役所の人とかなら、どの地域でも知ってるんじゃないですか。それから実際にアッザハルの事業にお世話になってる人達とか」

「ふうん……」

 系列校に在籍していたのにちっとも気付かなかったけど、とは言わずにおいた。昨夜のヴィンフリートの口ぶりだと、あえて組織のことを伏せているようにも受け取れたが、何故そんな運営方針を取っているのか、甚だ疑問である。

「やってることは悪くはないんですが、私個人としては嫌な思い出しかありませんのであまり好きじゃありませんね。あなたも災難ですよね、あいつらのせいでクリスマスもお家に帰れないなんて」

「いや、まあ」

 本当は、帰省先がないのは毎年のことだったので大して残念がることもない。しかし、言われてみて気になるのは、クレイの家庭事情だ。

「君は? クリスマス、家には帰るの?」

 旅芸人ということだが、拠点なり、帰る場所はあるのだろうか。

「いえ、帰りませんよ。遠いですもん」

 クレイは苦笑して答えた。遠くて帰らない、ということは、少なくとも家はあるらしい。

「遠いって、どこから来たの?」

「東アジアのほうです」

 すると、ここブリテン島へは大陸をはるばる東から西へと横断してやってきたことになる。ルーシャスには想像もつかない旅路だ。それでは思い立ってすぐに帰れる距離でもない。

「そんな遠くから、どうしてこっちに?」

「んー……何となく、来てみたくなりまして。巡業がてら観光してるんですよ」

 そんなに軽い動機でこんなところまで壮大な旅をしてきたというのか。

「じゃあ、これからどこに行くの?」

「さあ、特に行き先は決めてませんけど……とりあえず大陸に渡って向かうとすれば、パリあたりでしょうか。年末年始はきっと賑わうでしょうから、いい稼ぎ場になりそうですし」

「そっか……」

 気ままそうに見えて、クリスマス休暇も何も関係なく働いているらしい。

「そういうあなたは、このあとロンドンの学校に戻るんでしたっけ?」

「え? ああ、うん」

「じゃあ、お昼食べたらお別れですねえ」

 クレイがしんみりというふうに白い息を吐いた。

「そう、だね」

 本当はロンドンに戻るつもりはない。というより、“ルーシャス・ブライア”はもうアルマディナに向けて発ったのだから、戻ってはいけないのだ。しかしそれ以外なら、どこへ行くのも自由だった。別にブリテン島にとどまる必要もない。

 せっかくドーヴァーの港まで出向いたことだし、いっそのこと大陸に渡ってみようか――そんなことを一瞬考えたルーシャスだったが、やはり自分には無理だと頭を振る。金銭的余裕が戻ったとはいえ、どのみち働き口は探さなければならないことでもあるし、言葉に不自由する土地に行って暮らしていける自信はない。

「さあて、そろそろ商店街のようですけど。何をご馳走してもらいましょうかねえ」

 そうこうするうちに大通りに入ったらしく、行き交う人々が目につくようになった。クレイはきょろきょろと首を巡らせては、軒並み並ぶ店の看板を眺めて歩く。

「食べ物屋さんは……っと、ん?」

 急に、クレイがぴたりと足をとめた。

「どう、したの?」

 クレイは険しい表情で遠くを見ているようだった。だがその視線の先を追ってみても、何事もない町並みが続いているだけだ。寒々しい風が吹きつけては、街路樹をざわざわと揺する。

「クレイ?」

「……あののっぽ青年が」

「はい?」

 宙を見つめたまま、ぼそりと口を開くクレイ。

「ヴィンフリート・リヒター氏が、倒れているようなんですが」

「……え?」

 この子はまた唐突に何を言い出すのだろう。

 傍らで返答に窮するルーシャスを、クレイはどこか面倒くさそうな複雑な顔で見上げてきた。

「助けに行った方がいいですかね?」