§1
ルーシャスは唐突に目を覚ました。数秒の間、自分がどこにいるのか分からず、やがてじわじわと思いだす。どうやら一休みのつもりで横になったのが、そのまま眠り込んでしまったらしい。
うつ伏せの状態からのそりと起き上がると、身体に巻きついていた毛布がはがれる。たぶんエイミルが掛けてくれたのだろう。部屋を見回しても、そのエイミルの姿はなかった。隣のベッドには、毛布が無造作にかかっているだけだ。
窓辺からカーテン越しの薄い光がほんのりと差し込んでいる。もう朝なのだ。ストーヴの灯は消えていたが、寒さはあまり感じない。今何時頃だろうかと思い、ベッドから降りて窓に歩み寄った。
「あれ……?」
カーテンを開けてみると、外は予想以上に明るかった。見慣れた曇り空ではあったが、それでもいつもの起床時間とは日の高さがまるで違う。
寝坊した。その事実は、ルーシャスにとって少しばかり衝撃的だった。覚えている限りでは寝坊などしたことがなかったからだ。孤児院にいたころから毎朝六時きっかりに自然と目覚める体質で、遅刻とも無縁だった。確かに昨日は色々あって疲れていたが、それでも寝付いた時刻はいつもより早かったはずなのに。
ルーシャスは急ぎ足で部屋を出て、洗面所に向かった。その奥にシャワー室があるのを見て、そう言えば結局シャワーを使い損ねたなと思いながら、とりあえず顔を洗って寝癖頭をなでつける。制服は、着たまま眠ってしまったせいで、シャツもブレザーもスラックスもひどく皺になっていた。しかしアイロンをかけるわけにもいかず、心持ち伸ばして整えながら、三階から一階までの階段を一気に下りる。
おそるおそる食堂の扉を開くと――そこには誰もいなかった。廊下を抜けた先の玄関ホールも見に行ってみるが、誰もいない。壁の時計を見れば、針はとうに十時を回っていた。
こんな時間ということは、エイミル達はもうとっくに出発してしまったのだ。
一行が無事に旅立ったのならそれでいいのだが、なんてしまりのない別れ方だろう。ルーシャスは自らの寝ぎたなさに呆れつつ、もと来た廊下を戻った。
気が緩んだせいか、それとも眠り過ぎのせいなのか、身体がだるく頭が重い。少しばかり座って休みたい気分だったが、皆いなくなってしまったことだし、自分も長居するわけにはいかない。荷物をまとめてさっさと出て行こう。その前に、マダムと呼ばれていた管理人らしき女性には一声かけるべきだろうか。彼女はどこにいるのだろう。恐らくこまごまと雑用をこなしているのではと思うのだが――。
一階で厨房や中庭を覗いても見つからなかったので、二階に上がった。二階は、ルーシャスたちが泊った三階とほぼ同じ間取りらしく、いくつかの宿泊室と共同の洗面所とシャワー室があるだけのようだ。たぶん昨夜女性陣がこの階を使っただろうから、マダムが部屋を掃除しているかもしれない。
近いほうから見ていくのが早いと、ルーシャスは階段を上ってすぐの部屋のドアをノックした。そこはクレイがいた部屋だ。あの奇妙でこましゃくれた女の子は今頃はどうしているだろうか。目論見通りもう逃げ出すことができただろうか。
ノックに対する返事はなかった。それでも室内を一応覗き、人影がないのを確認してドアを閉めようとして、
「……?」
視界の端に映った何かが気になって手を止めた。
部屋の隅の床にある、それは、毛布の塊だった。だが毛布だけにしてはおかしな膨らみ方をしている。まさか、と思いながらも、ルーシャスは足音を立てずそれに近付いた。その塊は、ゆっくりとかすかに上下していた。
毛布の端をつまみ、そうっと捲りあげる。
現れたのは、柔らかそうな癖っ毛の黒髪。クレイだ。白い寝間着と毛布にくるまって、眠りこけている。
何故彼女がまだここにいるのかとか、ベッドでなく床で眠っているのかとか、疑問は尽きない。が、とりあえず起こそうと思った。よく眠っているところを邪魔するのはなんだか忍びない気もするが、時刻も時刻であることだし。
「クレイ?」
声をかけても何の反応もない。
「クレイ、クレイ」
肩を軽く揺すりながら、今度はもう少し大きい声で呼びかけた。
「…………ん、んん」
たっぷり数秒の後、鳴き声とともに、毛布の塊がもぞもぞと動き始めた。目をこすりながらゆっくりと顔を上げるクレイ。そうしてこちらの顔を認めると――途端に表情を凍りつかせた。
「ひっ、い……!」
掠れた悲鳴をあげて、クレイは跳び起きる。必死の形相で後ずさろうとしてすぐに壁にぶつかった。
予想外の反応に、ルーシャスも戸惑った。
「あ、あの……?」
どう声をかけたものか考えあぐねていると、クレイはやおら足元の枕をひっつかみ、殴りかかってきた。
「!?」
ばふばふと続けざまに頭を叩かれ、たまらず床に倒れ込む。そこにひときわ強い勢いで枕が投げつけられた。畳みかけるようにもう二、三撃の枕弾。そして起き上がる間もなく、今度は毛布が降ってくる。視界を遮られ身動きを封じられてさすがに危機感を覚えたルーシャスは、無我夢中で毛布から抜け出そうともがく。
なんとか頭だけ出したルーシャス。そこで視界に飛び込んできたのは、逆光の中、今にも振り下ろさんばかりに高々と椅子を持ちあげている黒い影。
もはや声も上げられず、その影を凝視する。
しかし――予想に反して、椅子は降ってこなかった。
椅子を持ち上げたそのままの格好で、クレイは静止していた。いや、実際には肩で激しく息をしていた。その荒い呼吸が落ち着くまでの間、ルーシャスは仰向けのままぴくりとも動けなかった。
「……ルース君?」
クレイが口を開いた。抑揚のない低い声で発されたのが自分の仮名だと気付くのに、三秒ほどかかった。というかそれでは、今まで誰かも分からずに攻撃してきていたというのか。
「どうしてあなたがここにいるんです?」
恐い顔のまま、クレイはそう訊いてくる。椅子もまだ下ろしてくれない。
「あ……あの」
口の中が乾いてしまって、喋りにくかった。
「ごめん、ただ、起こそうと思っただけ、で」
「そうじゃなくて! なんであなたがここにいるのかって聞いてるんです!」
質問の意図がよくわからない。逆にこちらがそう訊きたいくらいなのに。
「なんでって……なんで?」
途方に暮れて尋ね返したとたん、額にふっと風がそよいだ。気付けば、眉間に触れるか触れないかのところに椅子の脚先があった。クレイが、振り下ろした椅子をぴたりとそこで止めていたのだ。目を瞑る暇もなかった。
「もう一度だけお伺いします。あなたのお友達とその他は今朝がたいなくなってしまわれたのに、あなただけがまだここに残っていらっしゃる理由を教えていただけませんか?」
さっきよりも近い位置からクレイの声が降ってきた。非常に丁寧な口調に、気迫のこもった声音。椅子の座面に遮られて相手の顔は見えないが、それが逆に恐ろしい。
「あ、の……ねぼう、寝坊して――」
「寝坊?」
「ごめ、えっと、僕、さっき目が覚めて、そうしたらもう皆出て行った後みたいで、誰もいなくて、でも君がいたから、声をかけた、んだけど」
「…………」
「あの、ほ、本当にごめん、ごめんなさい。せっかく眠ってるところを、邪魔、して」
「…………」
返事を待ったが、クレイは黙ったまま何も言わない。
「あの、クレイ?」
「……もういいです」
なにやら気が抜けたようなため息とともに、目の前から椅子の脚がどいた。
クレイは静かに椅子を脇に置くと、ルーシャスの周りに散乱した枕を拾い集め、ベッドの上に並る。その様子を放心して眺めていると、冷めた表情がこちらを向いた。
「いつまで寝転がってるんですか」
「あ、はい」
びくりと我に返り、ルーシャスは起き上がって毛布から抜け出した。クレイはその抜け殻の毛布もずるずると回収しながら、悪びれる様子もなく言う。
「乱暴してすみませんでしたね。私、寝起きが悪いもので」
世の中に命の危機を感じさせるほどの寝起きの悪さが存在するとは、全くもって知らなかった。
しかしクレイは先程と打って変わって、もうすっかり穏やかな物腰に戻っていた。まだ床に座り込んだままのルーシャスに向かって、小首などかしげて見せる。
「で、お寝坊のルース君。あなた、身体はなんともありませんか?」
「え? ううん。さすがに枕じゃ怪我なんて――」
「いえ、私が言いたいのは、今しがたのことじゃなくて。早朝、誰かに殴られたりとかしませんでした?」
「……早朝? なんで?」
妙なことを聞いてくる。睡眠中に殴られるなんて、そうそうあってはたまらない。そもそも殴られること自体、たとえ相手が子どもで得物が枕でも、さっきのが初めてだった。
「本当に、何も気づかなかったんですか?」
「だって、そんな時間、眠りこけてたから……何かあったの?」
「ええまあ。強盗というか、拉致というか、そんな感じのことが」
「……はい?」
何の冗談だろう。
「今朝、まだ夜も開けやらぬうちでしたか、騒がしいので私目が覚めたんですよ。そうしたら、五人くらいの連中がこの建物に侵入してきて、皆さん連れ去られてしまったんです。金品を奪っていったかどうかは知りませんけど」
「皆さんって」
「あなたのお友達のブライア君に、あのお節介女達一行です。私、てっきりあなたも一緒にさらわれたたものとばかり思ってたものですから、さっきあなたの顔見てびっくりしてしまって。まあご無事でなによりでした。殴り倒しておいてなんですけど」
世間話でもするかのようなクレイの口調は、冗談なのか本気なのか判別がつかない。釈然としない気分で立ちあがると、じゃら、と音を立てて何かが足元に落ちた。
「あ」
確認するまでもない、昨夜ポケットに入れておいたロザリオだ。先程じたばたしたせいでこぼれかかっていたのだろう。それを拾い上げて顔をあげると、クレイが興味深そうな顔でこちらの手元を見ていた。
「な、何?」
「いえ、綺麗だなと思って。お守りですか」
「うん、まあ、たぶん」
「なるほど……どうりであなたは無事だったわけですね」
そう呟くクレイの表情は至って真剣だ。だがそれも、逆にからかわれている気がしてならない。
「えっと、君も、なんともなかったんだ?」
「この部屋には襲いに来ませんでしたからね。一応は迎撃準備をして、ずっとここに隠れていたんですけど、連中素通りしてずらかって行きました」
「それで、そのあとまたここで寝てた、の?」
「ええ。結構な時間待って、もう誰もいないから安全だと思って。まだ眠かったですし」
「そう……」
ずっとこの部屋に隠れていたのに、外の状況がそんなに詳細にわかるものか。よっぽどそう言いたかったが、あんまり無下に切り返すのも大人げない。
いや――もしかするとこの子のことだから、こう見えて実はまだ寝ぼけていて、夢と混同しているということも考えられる。
きっとハディア達は昨晩一泊して出発が遅れた分、今朝は始発の船便に乗ったのだろう。それで早朝から急いで準備していて、その騒ぎをクレイは夢うつつに聞いていただけでないのか。そう考えると、急ぐ必要のない自分は無理には起こされなかったわけだ――いや、声を掛けられても起きなかっただけかもしれないが。
クレイがこうして取り残されたのは、あまりに手に負えないのでやっぱり連れていくのは諦めた、といったところか。昨夜のハディア達に対する反抗的態度や、ついさっき実体験した寝起きの悪さを見れば、十分ありうる。もともと予定外の人員なのだから、いなくなっても別に不都合はないだろうし。
そんな風に考えてひとり勝手に納得していると、クレイが怪訝そうな顔をした。
「あんまり驚かないんですね。お友達がさらわれたっていうのに」
「え、いや、だって」
さらわれたも何も、予定通りに出発しただけのことだ。
言い淀んだルーシャスを見て、本気にしていないと察したのか、クレイは頬を膨らませた。
「言っときますけど、嘘つくんならもっと面白いこと言いますから、私」
そう言って踵を返し、ドアに向かう。
「あの、どこに――」
「顔を洗いに行くんです。何か文句でも?」
きっ、と睨まれては、首を横に振るしかない。
小さな足音が去ってから、ルーシャスは一つ息をついて部屋を出た。思いがけずえらい目に遭ってしまったが、おかげでぼうっとしていた頭はすっきりした気がする。とりあえず荷物を先にとってこよう。
自分の宿泊室に戻ったルーシャスは、ベッドの上のトランクと出しっぱなしにしていた着替えを片づけ、毛布をもとあったように掛け直した。そうしながら隣のベッドを見て、ふと違和感を覚える。
エイミルのベッドは、毛布が皺くちゃのままだった。あの何でもきっちりとした少年が、身支度に急いでいたからといって、ベッドも整えずに出ていくものだろうか。まさか本当にクレイの言った通り、さらわれたなんてことは――。
一瞬本気で考えかけたが、だとしたら自分がこうして無事でいるはずがないではないか、と思いなおす。強盗が押し入ったとして、同じ部屋にいる人間を片方は連れ去って、片方は無傷で残しておくなんて意味が分からない。
ただの思い過ごしだ。エイミルだって、ベッドにかまう余裕がなかっただけに違いない。
そう気を取り直し、くしゃくしゃの毛布を、代わりにきちんと掛け直した。
「……よし」
最後に忘れ物がないかもう一度見渡してから、ルーシャスは部屋を後にした。