§7

「あの子、やっぱりアルマディナに連れていくんだってさ」

 部屋に入るなり、エイミルはひとつため息をついてそう言った。さっきから何やら不機嫌そうだったのは、クレイのことが原因だったのか。

 ルーシャスは、ついさっきそのクレイから自分の手元に戻ったトランクをベッドに置き、横に座った。

「そうなんだ……でも、なんで?」

「さあ。なんか保護だとか言ってたけど、はっきりとは教えてもらえなった。これからしばらく一緒に行動する人間が正体不明だなんて、あんまりいい気分じゃないな。本当に何者なんだろう、あの子」

 向かいのベッドに腰をおろし、不満げな様子でぼやくエイミル。

「あの……あのさ」

「何?」

「さっき――というか、下に行く前なんだけど、僕、あの子とちょっと、話したんだ」

「はあ? 何でまた」

「いや、通りかかったら物音がしたから、見に行ってみたら、あの子が縛られてて」

「縛られてた?」

「うん。椅子にぐるぐる巻きで。本人は、平気そうにしてたけんだけど」

「どう考えても平気じゃないだろ、それ。どこが保護だよ、監禁じゃないか」

 エイミルは眉をひそめた。

 言われてみれば確かに監禁だ。ドアに鍵がかからないから、逃げ出さないように拘束したのだと思われるが、他にやり方があるだろうに。

「それでどうしたんだい、君は?」

「うん。助けようと思ったんだけど、ほっとけって言われて。あとは、謝ったり、少し話をして……」

 クレイが逃げ出すつもりでいるらしいことは、黙っておいたほうがいいだろうか。

「話って?」

「えっと、名前、聞いたよ。クレイだって」

「クレイ? それじゃ男の名前だけど。女の子だよな?」

「たぶん」

 ハディア達は“お嬢さん”と呼んでいたから、そうなのだろうと思う。

「本名かどうか怪しいもんだな」

「さあ……でもほら、中国系っぽいし、通名とかじゃない? 本名に似た音の。よくわからないけど」

「それなら“クレア”とか“クララ”とかでいいだろ」

「うーん、好みだったんじゃない? “クレイ”が」

「好みねぇ。まあ、いいか。名前なんて何でも」

 肩をすくめるエイミル。

「しかし、普通に話せたんだな、あの子と。だいぶ機嫌悪くしてたみたいだったのに、さっきは荷物も返してくれたし。怒ってなかったのか? 金の件で」

「ううん。むしろ、心配された。大事なお金じゃなかったのかって。どうするんだって」

「へえ……やっぱり変な子だ」

「まあ、何ていうか……肝が据わってるというか、しっかりしてる感じだったけど」

 エイミルの率直な感想に対して、ルーシャスは取り繕いながらも否定はしなかった。

「でも、これからどうするかって話は実際問題だな」

「うん……」

 話題がそこに行きつくと、気分が沈む。明日から路頭に迷うことになるわけだが、まず仕事を探すとしても、稼ぎが入るまでどうやって生活していけばいいのか。

「君、いま残金いくら持ってるんだい?」

「えっと――これだけ」

 ポケットから出した拳を開いてエイミルに見せる。今朝学校を出るときに切符代として紙幣をもらったのだが、切符を買い、昼間屋台で軽食を買ったので、ほんのわずかな釣銭しか残っていなかった。

「駄菓子屋にいく子どものお小遣いだな」

「うん……」

 さすがに駄菓子では腹もちが悪いだろう。食べたことはないけれど。

「もしかして奨学生って、小遣いとかは出ないのか?」

「うん、必要なものは現物支給。だいたい、お小遣いなんて貰っても、校内にいる限り使いどころもないし」

「……そっか」

 エイミルは少し考えている様子だったが、何を思ったか懐から財布を出した。

「じゃあ僕が金持ってるのも変だし、全部君に渡しておこう」

 そう言って、財布に入っていた紙幣をごっそりとよこした。札束の山をみた後でも、ルーシャスには随分な大金に思えた。

「あの、普段から、こんなに持ってるの?」

「こんなにってほどでもないけど。本何冊か分ぐらいだし」

 こともなげに返されたが、本は図書室で借りるばかりで買ったことはないので、値段の相場など知らない。というか、考えてみればお金を使った経験自体がほとんどないので、普通の金銭感覚というものがよく分からない。

「それでどれくらいもつか……何か足しになりそうなものあったっけ」

 エイミルは、さらに自分のトランクを持ち出して中身を物色し始める。しかし、本を数冊出したところで目ぼしいものは尽きたらしく、力なく手を止めてしまった。

 もういいからと声をかけようとすると、エイミルはおもむろに懐に手を入れ、しゃらりと音をさせて鎖付きの懐中時計をとりだした。

「これなら、そこそこ高く売れると思う」

 ずいと目の前に差し出されたそれは、少しくすんではいるが金色で、蓋の装飾も凝っていて、結構な年代物のように見える。それだけに、十代の少年には不相応のような気がする。いくら資産家の息子でもだ。

「あの、こんな、値の張りそうなもの、受け取れないよ」

「値が張らないと君に渡す意味ないだろ」

「でも、それ、すごく大事なものなんじゃ――」

「いいんだよ、四の五の言ってる場合じゃないんだから。ほら!」

 半ば押しつけるように懐中時計をルーシャスに握らせた。

「換金する時はちゃんとした店に行けよ。その辺の怪しそうな店じゃなくて、きちんとした誠実な店で鑑定してもらうこと。あと、妥協しないで一番高く買い取ってくれるところを探すこと」

「う、うん」

「それで、上手くすれば一、二ヶ月くらいはもつんじゃないか」

「うん……ありがとう」

 釈然としないまま礼を述べる。エイミルは渋い表情だが、本当に受け取っても良かったのだろうか。

「じゃあ、僕は先にシャワー行ってくるから」

 そう言うと、エイミルは着替えを手にすっくと立ち上がり、さっさと部屋を出て行ってしまった。

 ルーシャスは両手に持った懐中時計と紙幣をしばらく眺め、どこにしまおうかと考える。これまで金銭を持ち歩くことのなかったルーシャスは、もちろん財布も持っていない。かといって紙幣を何枚も裸でポケットに入れておくのは怖い。懐中時計も、なにやらエイミルの思い入れある品のようだし、実用品として自分の懐に入れるのは躊躇われる。

 結局、トランクの奥底にしまいこむのが最善だろうと考え、荷物整理をすることにした。開けてみると、中身は自分が詰め込んだ通りのまま、あれから特にいじられた形跡はないようで、少し安心した。

 それにしても、このトランク一つに収まっているのが自分の全財産かと思うと、不思議な感じだ。全財産と言っても最低限必要なものばかりで、替えの下着類とシャツとスラックスがほとんどを占めている。勉強道具は、教科書や辞書は重くて持ち歩けないので学校に返却して、筆箱と使いかけのノート数冊が残っているだけ。それらを順番にどけ、底に埋もれていた黒い布包みを取りだす。

 その中身は、聖書とロザリオだ。中等学校に上がることになって孤児院を出ていくときに、院長から貰ったものだった。教会に併設された孤児院だったので、餞別もそういう物をくれたのだろう。しかしルーシャスはせっかくの品々を、貰ったその日からずっとトランクの奥底にしまったままにしていた。さして信仰心が篤いわけではないけれども、少し罰当たりだったかなとは思う。だが実際、学校生活を送るのに聖書もロザリオも必要なかったのだから仕方ない。

 ともかくこの二つは、ルーシャスの持ち物の内では、まあ貴重品と言っていいだろう。なので、エイミルからもらったお金と懐中時計もここにまとめて包んでおくことにする。お金を出すのにいちいち荷物をひっくり返さないといけなくなるが、極力切り詰めていきたいので、自制のためにもそのほうがいい。さしあたって、ポケットは小銭だけにしておこう。

 再び布で包んでしまう前に、ふと、ロザリオに目を留めた。祈りの詞を数えるのに使う道具とは知っているが、ロザリオの祈りなんて孤児院では習ったことがない。それなのに何故こんなものを渡されたのか、今でも不思議だ。

 手にとって、しげしげと眺めてみる。緑色の石の珠を連ねた鎖に、真鍮色の十字架。環付きで編み込みのような模様が施されたケルト十字は、アイルランド島育ちのルーシャスにはなじみ深い。教会の墓地にはこんな感じの墓石が並んでいたものだった。

 だが、このロザリオは一つ妙な点がある。普通は聖母マリアの姿が描かれるメダイに、誰だかよくわからない女性の横顔が描かれているのだ。そして裏面には三つ葉の絵柄。意味が分からない。

 これを売ったらどのくらいになるのか――そんなことを一瞬考えてしまい、慌てて掻き消す。こういうのは売りに出すものではないだろう。そんなことをしたらそれこそ罰が当りそうだ。今だって決して良くない状況なのに。

 この際、ただの気休めでも、お守りとしてちゃんと身につけておこうか。

 そう思って、ルーシャスはロザリオをシャツの胸ポケットにしまった。ごろごろして少し重い気がするが、うっかり落として失くすようなことはまずなさそうだ。

「……よし」

 そう独りごちて、残りの貴重品を布に包み直す。そうして元通りにトランクに詰め、後でシャワーに行く時の着替えを残して、一旦蓋を閉めた。

 一つ息を吐き、ベッドにばふりと倒れこんだ。伸びをする。欠伸がでる。横になってみて、ひどく眠いのに気がついた。エイミルが戻るまで少し横になっていよう。

 寝転がったまま靴を脱ぐと、ぼとぼとと床に落ちる。我ながら行儀が悪いと思って、のそりと向きを変えて床に手を伸ばし、靴を揃えた。枕に足を向ける恰好になったが、戻るのが面倒くさい。そのままぼうっとストーブの灯を眺める。暖かい部屋に柔らかいベッドが揃うと、こうも眠くなるものか。

 いつもの就寝の時間にはまだまだ早い。けれど、今日は事件がありすぎた。驚いたり緊張しっぱなしだったりでとても疲れた。一日をこんなに長く感じたことは今までにない。

 明日からは宿なしで職探しの日々が始まるが、そうすると今日より大変になるかもしれない。でもとりあえず自由にはなる。明日の朝、エイミル達を見送ったら、そのあとは本当に一人っきりだ。何をしようか、どこへ行こうか。

 そういえば、別れる前にもう一度クレイと話す機会はあるだろうか。札束の持ち主について黙っていてくれたこと、トランクを返してくれたことに対して、ちゃんとお礼を言いたい。直接話すのが無理そうだったら、エイミルに言伝を頼んでおこう。あとは、クレイが無事に逃げだせることを願うばかりだが――。

 色々なことをつらつらと考えているうち、ルーシャスの瞼はだんだんと重くなっていき、やがて、重力に逆らうのをやめた。

   ***

 シャワーを終えて部屋に戻ったエイミルは、枕に足を向けてベッドに突っ伏しているルーシャスを見つけて、一瞬立ちすくんだ。近づいてみると寝息が聞こえたので、少し安心する。

「おい、起きろ」

 肩をゆすってみたが、ぴくりともしない。

「ちょっと、そのまま寝る気か? 風邪ひくぞ。服にも皺が寄るぞ」

 がくがくとかなり強く揺さぶってみる。しかしルーシャスは昏々と寝入っていて、一向に目を覚ます気配はない。

「まったく……」

 下敷きになっている毛布を引っ張って転がしたら嫌でも起きるだろうかと考えたが、さすがにそれはあんまりかと思いなおし、身体に毛布を巻きつけてやるにとどめた。いろいろあって疲れているのだろう。それはエイミルも同じだった。

 ストーブの近くまで椅子を持ってきて腰かけ、濡れた髪をタオルでわしわしと拭く。早く乾かしてさっさと寝よう。

「…………」

 ふいに手を止め、タオルを被ったまま、ルーシャスを見やった。

 ぼさぼさの金髪がかかる寝顔は、実に呑気なものだ。彼は本当に自分の置かれている状況を理解しているのだろうか。明日から一人でちゃんと生きていけるのだろうか。お人好しでぼうっとして頼りない様子を思うにつけ、やっぱり心配になる。

 しかし同時に、何の苦労も知らなさそうな善良ぶりが腹立たしく、立場を奪ってやってしてやったりとも思ってしまう。そして自分が嫌になる。そんな暗い感情が湧いてくるのは、なぜルーシャスが選ばれたのかを知ってしまったからだ。

 先刻ハディア達と話をした時、エイミルは“ルーシャス”がシャローマ学院の編入生に選ばれた理由を聞いてみた。返ってきた答えは「孤児だから」だった。

 別に孤児であること自体が理由なのではない。聞いたところによれば、ハディア達の属する組織が世界中にもつ系列校で、奨学生として在籍している学生の中から特に優秀な成績を修めてきた者が、密かに選ばれるのだという。恵まれない境遇にありながら頭角を現したという点で実力が期待できるからだそうだ。しかし遠隔地から学生をとる場合は、なるべく身内のいる者は避け、孤児を優先する。それは、一旦シャローマ学院に入ると簡単には外に出られないので、遠方に身内がいるとなると何かと不都合だからということらしい。

 それを聞いて、エイミルは何か、言葉では表わし難い衝動に駆られた。それでは、アルマディナから遥か離れた地に住み孤児でもない自分は、どんなに頑張っても端から学院に行けるはずが無かったのだ。そして学院を目指した祖父の努力が報われなかったのも、同様にたったそれだけの理由だったのだ。祖父はそれを知らないまま夢破れて仕方なく家業を継がされ、商いを営む一族中から学者かぶれの役立たずと謗られていた。早々に隠居した後も、孫のエイミル以外に祖父を顧みる者はいなかった。失意の一生を送った祖父を想うと、憤りすら覚える。その怒りは理不尽な学院の選抜制度に対してでもあり、とんだ足枷となった低俗な親戚に対してでもある。話を聞いている最中は平静を装うのが大変だった。

 ハディアは、この選抜方法は理にかなったものだと力説した。ただ成績の優秀さのみで学生を募れば、どうしたって教育に投資できる富裕層の子弟が有利になる。そうなると、学院を中心とした都市アルマディナは、富裕層が権力を独占するようになり、貧困層が固定化されてしまう。それを防ぐ一つの手が、経済的余裕がなく奨学制度を利用している学生に限定して集めることだ。そうすれば、貧しくても学問を修めることによって立身出世の道が開かれる。「恵まれない者にこそ教育を」というのがシャローマ学院の信条であるらしい。余裕のある富裕層は放っておいても高度な教育にありつける。だから学院から弾いても問題ないというのだ。

 正論と言えば、正論なのだろう。しかしそれならそうと選抜条件を公示してくれればいいのに、何故こそこそと孤児を採るような真似をするのだろうか。今日、ルーシャスに替え玉を申し出るという暴挙に出なければ、エイミルは馬鹿正直に報われない努力をし続けたことだろう。祖父のように、何も知らないまま。

 では今、こうしてまんまと“ルーシャス”に成りすまして学院に入れそうなこの状況を、手放しで喜べるかと言えば――そうでもない。

 編入生の立場と引き換えにルーシャスに渡した祖父の遺産は、不慮の事故で没収されてしまった。結果として、ルーシャスは本来享受すべきものをすっかり失い、一方でエイミルは本来得られるはずもなかった好機を得た。ルーシャスには譲ってもらった分可能な限り補償するつもりだったのに、こんなことになってしまって正直迷っている。金を渡しただけで補償したつもりになっていたことも、今更ながら浅はかだったと思う。しかし、せっかく手にした絶好の機会を逃したくはなかった。

 だから、迷いを断ち切るつもりで、祖父の形見の時計もルーシャスに渡した。“ルーシャス”になると決めたのだから、“エイミル”の持ち物は捨てなくてはならない。

 祖父がエイミルに遺したものは、書斎一杯の本と、多額の学費と、あの懐中時計と、それからシャローマ学院への夢である。

 本は持ち歩くわけにもいかず、実家に置いておくと捨てられそうなので学校の図書館に寄付した。学費は、代償としてルーシャスに渡したが運悪くその手を離れた。ほぼ一文無しになったルーシャスのために、唯一の金目のものであった時計を渡した。

 本当は時計も渡したくなかった。あの時計は、祖父がそのまた祖父から成人祝いに贈られ、ずっと身に着けていたという大切なものだったからだ。そして祖父は「お前が成人したら譲ってあげよう」と生前よく言ってくれた。結局、エイミルが成人するのを待つことなく祖父は逝ってしまい、エイミルは無言の亡き骸からそれを貰い受けたのだった。

 以来、一年間肌身離さず持っていた時計だ。心残りはある。今もシャツの胸ポケットを探ると、何もない感触にひどく違和感を覚える。もしルーシャスが起きていたら、やっぱり返してくれと喚いていたかもしれない。なので、眠っていてくれてむしろ良かった。そうだ、これで良かったのだ。自分もこのくらいの犠牲は払ってしかるべきなのだ。そうでないと踏ん切りがつかない。

 たった一つ、夢だけは手放さないでいられるように。

 エイミルは、胸ポケットに心許なく当てていた手で拳を作り、強く心臓に押し当てた。そして目を閉じ、小さく噛みしめるように誓う。

「僕は、あきらめません。お祖父様……」